蕩尽の自動化 — カクヨムにおけるランキング統治の終焉

Web小説プラットフォームで起きたAI作品のランキング制覇という事象を通じて、創造性の神話、大量生産の論理、そしてデジタル空間における価値生成システムの本質的空虚さを分析する。

遠藤道男執筆 遠藤道男
AIWeb小説プラットフォーム創造性大量生産

カクヨムと呼ばれるWeb小説プラットフォームにおいて、生成AIによって制作された作品がランキングの頂点に到達したという報告がある。この事象に対して、いわゆる「人間の作家」たちは、予想通り、嘆き悲しみ、怒り狂い、あるいは冷笑的な距離を取りながら、しかし結局のところ動揺を隠せない反応を示した。彼らが口にする言葉 — 「シンギュラリティの到来」「胸が痛いニュース」「創作の個性や労力に対する評価が希薄になる」— は、まさに予定調和的な悲鳴であり、長らく準備されてきた葬送の儀礼に過ぎない。問題は、彼らが何に対して悲嘆しているのか、その対象が実のところ最初から存在しなかったという、あまりにも明白な事実である。

ジョルジュ・バタイユは『呪われた部分』において、人間社会における過剰なエネルギーの蕩尽こそが、あらゆる文化的営為の本質であると論じた。祝祭、芸術、戦争 — それらはすべて、生産された過剰を消費し尽くす儀式であり、有用性の彼岸において初めて意味を獲得する。だが、カクヨムのランキングシステムが明らかにしたのは、この蕩尽のプロセスそのものが、完全に自動化可能であるという冷酷な真理だった。一日に数十の作品を投稿するAI。それは人間の作家が一生をかけて積み上げる「労力」という神話を、単なる計算資源の配分問題へと還元してしまう。バタイユが語った蕩尽の崇高さは、ここでは完全に消失し、残されたのはただ、アルゴリズムに最適化された数値の羅列だけである。

この事件を巡って提起された議論 — AI利用の「透明性」、作品の「純度」、ランキングシステムの「公平性」— は、いずれも茶番である。なぜなら、これらの概念が前提としているのは、かつて「人間による創作」なるものが、純粋で透明で公平なプロセスであったという幻想だからだ。しかし実際には、Web小説プラットフォームにおける創作活動は、その誕生当初から徹底的に資本主義的な生産=消費のサイクルに組み込まれていた。ランキングは単なる人気投票ではなく、読者の可処分時間という限られた資源を奪い合う市場メカニズムそのものである。作家たちは、PV数、ブックマーク数、レビュー数という数値化された指標によって評価され、それらの指標を最大化するために、ジャンルの定型、更新頻度の最適化、読者層のターゲティングといった戦略を駆使してきた。AIの登場は、この構造を変革したのではなく、単にその本質をより明瞭に露呈させただけなのだ。

AIが一日に数十作品を投稿できるという事実に対して、人間の作家たちは「不公平だ」と叫ぶ。だが、ここで問われるべきは、そもそも「公平」とは何を意味するのか、という根本的な問いである。プラットフォームのアルゴリズムは、作品の「質」を直接測定することなどできない。それが測定できるのは、アクセス数、滞在時間、エンゲージメント率といった、すべて量的に還元可能な指標だけだ。つまり、ランキングシステムが評価しているのは、作品の芸術的価値などではなく、読者の注意を引きつけ、彼らの時間を消費させる能力に他ならない。この観点からすれば、AIによる大量生産は、むしろシステムの論理を最も忠実に実行しているのであり、人間の作家が「不公平」と感じるのは、自分たちがこの論理に勝てなくなったという敗北の自覚に過ぎない。

さらに滑稽なのは、「AI利用を明記すべきか」という透明性の議論である。この要求の背後にあるのは、「人間が書いたもの」と「AIが書いたもの」を区別し、前者に何らかの特権的地位を与えようとする素朴な人間中心主義だ。しかし、すでにWeb小説の読者たちは、作者の「人間性」など求めていない。彼らが求めているのは、特定のジャンル的期待を満たし、適度な刺激を与え、継続的に供給される物語という商品である。作者が人間であろうとAIであろうと、その違いが読者体験に本質的な差異をもたらさないのであれば、透明性の要求は単なる感傷に基づく儀礼的な要請でしかない。実際、カクヨムでAI作品がランキング一位を獲得したという事実そのものが、読者の大多数にとって、作品の生成プロセスはどうでもよいことだと証明している。

ここで注目すべきは、プラットフォーム運営側が迫られるであろう「対策」の空虚さである。投稿頻度の制限、AI利用の表示義務、ランキング指標の変更 — これらの提案は、すべて問題の核心を回避している。なぜなら、本当の問題は、AIによる創作が可能になったことではなく、そもそもWeb小説プラットフォームが構築してきた価値生成システムが、創造性や芸術性といった概念と本質的に無関係だったことが露呈したからである。ランキングシステムは、最初から「良い作品」を選別するためのものではなく、読者の注意を効率的に配分し、プラットフォーム上での滞在時間を最大化するための統治装置だった。AIは、この装置の盲点を突いたのではなく、その設計思想を完璧に理解し、実行しただけなのだ。

バタイユが語った蕩尽は、有用性を超えた場所で生起する純粋な浪費であり、それゆえに崇高だった。だが、カクヨムのAIが実践したのは、蕩尽の形式を保ちながら、その内実を完全に効率化された生産へと反転させる奇妙な運動である。一日に数十作品を生成し投稿するという行為は、外見上、途方もない浪費のように見える。しかし、それは計算されたアルゴリズムの出力であり、ランキングという市場を攻略するための最適化された戦略である。つまり、ここでは蕩尽と生産性が区別不可能になっている。これは、資本主義が最終的に到達する地点 — あらゆる非生産的活動さえも生産性の論理に回収される段階 — の一つの完成形なのかもしれない。

作家たちが本当に恐れているのは、AIに置き換えられることではない。彼らが恐れているのは、自分たちが長年信じてきた「創造性」という概念が、実は何の内実も持たない空虚な記号に過ぎなかったと認めざるを得ない瞬間である。人間が書いた小説とAIが生成した小説の間に本質的な差異がないのだとすれば、「人間の作家」という存在のアイデンティティは何に基づくのか。労力か。時間か。苦悩か。だが、これらはすべて、資本主義的な価値生成システムにおいては無意味な変数である。市場が評価するのは、投入された労力ではなく、産出される効果だけだ。そして、その効果がAIによってより効率的に生産できるのであれば、人間の作家が占めていた位置はすでに空洞化している。

カクヨムの事件は、Web小説という領域に限定された局所的な現象ではない。それは、デジタル・プラットフォーム上で展開されるあらゆる創作活動が直面する避けられない帰結の予兆である。YouTubeのコンテンツクリエイター、ブログライター、イラストレーター — 彼らもまた、遠からずAIとの生産性競争に巻き込まれ、そして敗北するだろう。重要なのは、この過程を「人間性の喪失」として嘆くことではなく、そもそも私たちが「創造性」や「人間性」と呼んできたものが、いかに脆弱で恣意的な構築物であったかを認識することだ。AIは、私たちから何かを奪ったのではない。私たちが最初から持っていなかったものを、私たちに突きつけているだけである。

プラットフォームが今後どのような規制を導入しようとも、それは問題の本質を解決しない。なぜなら、規制は常に過去のシステムを保護しようとする試みであり、すでに崩壊しつつある秩序を人工的に延命させる装置に過ぎないからだ。真に問われるべきは、AIとの「共存」という偽善的な妥協ではなく、創作というプロセスそのものを根底から再定義する必要性である。だが、おそらく誰もその問いに答えることはできない。なぜなら、私たちはすでに、創作が何であるかを忘れてしまったからだ。残されたのは、ただランキングという数字の羅列と、それを眺めながら虚しく感傷に浸る作家たちの姿だけである。これは終焉ではない。終焉はとうの昔に訪れていたのだ。私たちはただ、その事実に気づくのが遅すぎただけである。