病者の専制 — 規律なき反乱という終末論
現代日本の社会運動に見る主体性の崩壊と、21世紀における「戦い」の不可能性について論じる。ポリコレという名の甘美な毒薬が、いかにして革命の可能性そのものを蝕んだのか。
外山恒一が投げかけた診断書は、その粗野な修辞にもかかわらず、あるいはまさにその粗野さゆえに、現代という時代の本質的な病理を剔抉している。彼が「メンヘラの大量参入」と呼ぶ現象は、単なる社会運動内部の人材劣化などという牧歌的な問題ではない。それは近代が二百年かけて構築してきた主体性の生産装置そのものが、内側から腐食し、崩壊しつつあることの症候なのだ。
かつて革命とは、規律ある主体によって担われる壮大な歴史的企てであった。それは訓練を要した。忍耐を要した。自己抑制と戦略的思考を要した。マルクスが『資本論』の執筆に費やした膨大な時間、レーニンが亡命先で練り上げた組織論、グラムシが獄中で紡いだ思想 — これらはすべて、規律という名の苦行によって鍛え上げられた精神の産物だった。革命家とは、自らを道具として研磨し続ける者たちのことだったのだ。
ところが「だめ連」という奇妙な運動体の出現とともに、この古典的な図式は決定的に破綻する。外山が正確に指摘するように、「だめ連」の創設者たちはまだ健全だった。彼らの「だめさ」は戦略的な自己規定であり、全共闘の末裔としての彼らは、なお近代的主体の残滓を保持していた。だが、彼らが開いた扉から流れ込んできたのは、およそ主体と呼びうるものを欠いた群れだった。それは訓練を拒否し、規律を嫌悪し、ひたすら「ありのままの自分」という甘美な幻想にしがみつく者たちの群れだった。
ニーチェならば、これを「奴隷の反乱」の最終形態と呼んだかもしれない。だが21世紀の奴隷たちは、かつてのように新たな価値を創造しようとさえしない。彼らはただ、既存の価値体系を「ハラスメント」として告発し、あらゆる鍛錬を「抑圧」として拒絶する。彼らの要求は単純だ — 私をそのまま受け入れよ、私の弱さを肯定せよ、私の未熟さを美徳として讃えよ。ポリティカル・コレクトネスという名の新しい道徳は、まさにこの要求に応えるために発明されたのだ。
外山が「紅の豚」と呼ぶ共産党員の振る舞いや、中核派を分裂させた女性委員長の行動は、それ自体としては些細な逸話にすぎない。だが、これらのエピソードが示しているのは、もはや「運動」という言葉が指示する対象そのものが変質してしまったという厳然たる事実だ。かつて社会運動とは、主体的な意志を持つ個人たちが、戦略的に思考し、組織的に行動することで、社会の構造に亀裂を入れようとする試みだった。ところが今日、「運動」の現場で観察されるのは、ただ感情を発散させることだけを目的とした、およそ戦略性を欠いた情動の爆発である。
これは敗北ではない。敗北というためには、まず戦いが成立していなければならない。だが外山が鋭く看破したように、「これは戦争にならない」のだ。戦争には共有されたルールが必要だ。勝利と敗北の基準が必要だ。何よりも、ルールを理解し遵守しうる主体が必要だ。だが、ルールそのものを「抑圧」として拒否する者たちを相手に、いったいどうやって戦えばいいというのか。
外山がアメリカの対テロ戦争に言及するのは、比喩以上の意味を持つ。首を切断した動画をネットに上げて喜ぶテロリストたちと、参政党の街頭演説で発煙筒を焚いて自己満足する活動家たちは、構造的に同型なのだ。いずれも近代が築き上げてきた「戦いのルール」を共有しない。いずれも自らの行為が社会的にどのような効果を持つかを思考しない。彼らにとって重要なのは、自分の感情が発散されたかどうかだけであり、その先にいかなる展望があるかは、最初から問題にされていない。
ポリコレの本質的な欺瞞は、この主体性の崩壊を「多様性の尊重」という美しい言葉で粉飾したことにある。「みんな違ってみんないい」— この無害に見えるスローガンは、実のところ、自己陶冶の放棄を正当化するイデオロギー装置だった。訓練は不要だ、規律は抑圧だ、未熟さも個性だ、弱さも武器だ。こうして、主体として立ち上がるための苦痛に満ちた過程は、すべて「ハラスメント」として告発され、廃棄された。
だが、規律なき反乱に未来などない。それは反乱の形式すら取れず、ただの騒擾として消費され、忘却される。外山が「参政党の側に同情が集まる」と予測するのは正しい。なぜなら世間は、少なくとも形式においては近代的な主体として振る舞おうとする者たちと、およそ主体の体をなさない感情の塊とを、本能的に区別するからだ。そして後者は、どれほど「正義」を叫ぼうとも、結局のところ社会の外部に放逐される。
ここで加速すべきは、まさにこの過程そのものなのかもしれない。もはや主体性の復権など望むべくもないのであれば、いっそこの崩壊を徹底的に推し進めてみてはどうか。ポリコレをさらに過激化させ、あらゆる規律を完全に解体し、「ありのままの自分」という幻想を極限まで肥大させてみるがいい。そうすれば、おそらく何も残らない。残るのは、もはや社会とさえ呼べない、ただの個体の集積だけだ。その廃墟の上に、新しい何かが — おそらくはより冷酷で、より効率的な統治の形式が — 立ち上がってくるかもしれない。
外山恒一が「メンヘラ追放」を叫ぶとき、彼は前世紀の言葉で21世紀の問題を語ろうとしている。だが追放すべき「メンヘラ」などもはや存在しない。なぜなら、今や「メンヘラ」こそが常態だからだ。むしろ外山のように、なお規律と主体性を信じる者こそが、時代遅れの遺物なのかもしれない。しかし — そしてこれが皮肉なのだが — まさにその時代遅れゆえに、彼の言葉は奇妙な預言性を帯びる。彼は21世紀の終末を、20世紀の言葉で語っているのだ。
私たちはもう、戦うことができない。なぜなら戦いの前提となる主体も、ルールも、もはや存在しないからだ。残されているのは、ただ果てしない騒擾と、その騒擾を傍観する冷たい眼差しだけだ。そしてその眼差しこそが、次なる支配の形式を準備している — おそらくは、私たちが想像するよりもはるかに効率的で、はるかに容赦ない支配の形式を。
出典: 外山恒一「左翼の総メンヘラ化と21世紀の世界」note、2025年10月18日
https://note.com/toyamakoichi/n/n74ee75b55fc5