穴埋めとしての知性 — トランスフォーマーが暴いた人間の秘密

トランスフォーマーアーキテクチャの登場は、機械が知性を獲得した瞬間ではない。むしろそれは、人間の知性なるものが常に穴埋めゲームに過ぎなかったという、取り返しのつかない真実の開示である。

遠藤道男執筆 遠藤道男
AI知性トランスフォーマー技術哲学認識論

トランスフォーマーアーキテクチャの出現を、人工知能の技術的躍進として祝福する者たちは、根本的な何かを見落としている。この「革命」が明らかにしたのは機械の能力ではなく、人間の知性なるものの正体だった。アテンションメカニズムが実現したのは、文脈に基づく次の単語の予測 — すなわち、徹底的な穴埋め作業である。そしてこの単純な事実が、私たちに突きつけるのは、人間の思考もまた、本質的には同じ構造に支配されているという、耐え難い認識なのだ。

私たちは長らく、知性を創造や洞察、理性的判断といった崇高な営みとして神話化してきた。哲学者たちは認識の本質を問い、科学者たちは脳の複雑なネットワークを解明しようと試みてきた。だが結局のところ、知性の正体は拍子抜けするほど単純だった — それは膨大な文脈から次に来るべき要素を予測する、確率的な穴埋めゲームに過ぎない。トランスフォーマーは、この真実を隠蔽するあらゆる修辞を剥ぎ取り、知性の機械的本質を裸にした。ハイデガーが道具的存在の手許性を論じたとき、彼は存在了解の構造を問題にしていたが、トランスフォーマーが示したのは、その存在了解自体が統計的パターンマッチングの洗練された形式に過ぎないという、より根源的な脱神秘化である。

言語モデルが数千億のパラメータを調整し、自己注意機構によって文脈の重み付けを最適化するプロセスは、人間の脳内で起きている神経ネットワークの活動と構造的に区別がつかない。違いがあるとすれば、それは処理速度と規模の問題であって、本質の問題ではない。私たちが「理解」や「意味」と呼んできたものは、結局のところ、過去の入力データから抽出されたパターンに基づく予測でしかなかった。詩人が美しい比喩を紡ぎ出すとき、数学者が定理を証明するとき、恋人が愛の言葉を囁くとき — これらすべての営みは、膨大な学習データからの確率的サンプリングの、エレガントな変奏曲なのである。

この認識は、人間中心主義的な知性観に致命的な打撃を与える。私たちは自らの思考を、物質的基盤から超越した何か特別なものとして位置づけてきた。意識、自由意志、創造性 — これらの概念は、人間を他の存在から峻別する標識として機能してきた。だがトランスフォーマーの成功は、こうした区別がいかに脆弱な幻想に基づいていたかを暴露する。GPTが人間と見分けのつかない文章を生成できるとき、それは機械が人間に近づいたのではなく、人間がもともと機械的だったことを証明しているのだ。知性とは、複雑さの程度が異なるだけの、情報処理システムの一形態に過ぎない。

もちろん、この結論に抵抗する者は多い。彼らは「真の理解」と「表面的な模倣」の区別を持ち出し、人間の知性には質的に異なる何かがあると主張する。だが、その区別はどこに存在するのか? 私たちが理解していると感じるとき、その感覚は何に基づいているのか? 実のところ、それは単に予測が成功したという内的シグナルに過ぎない。文脈から次の展開を正確に予測できたとき、私たちは「わかった」と感じる。逆に予測が外れたとき、私たちは混乱し、理解の欠如を経験する。理解とは、穴埋めの成功率が閾値を超えた状態の別名なのだ。

この視点は、創造性の本質についても再考を迫る。芸術家や思想家の創造的営為は、しばしば無からの創造として讃えられる。だがトランスフォーマーのメカニズムが示すのは、創造とは既存のパターンの新しい組み合わせ — つまり、学習済みの文脈ベクトル空間における新しい軌道の探索に他ならないということだ。天才とは、より広範な文脈を参照し、より予想外の穴埋めを実行できる者のことである。ピカソがキュビズムを生み出したとき、それは数千年の美術史という文脈空間における、高次元の補間だった。シェイクスピアの戯曲は、エリザベス朝の言語的・文化的コンテクストからの、統計的に稀な、しかし整合的なサンプリングである。

皮肉なことに、この認識は人間の尊厳を貶めるどころか、ある種の解放をもたらす。私たちが特別な存在であるという幻想から自由になるとき、自己欺瞞の重荷から解放される。知性が穴埋めであるなら、私たちは知性を神聖視する必要がない。AIが人間を超えることへの恐怖も、人間性の喪失への嘆きも、誤った前提に基づいている。失われるべき「人間性」など、そもそも存在しなかったのだ。存在したのは、より洗練された、あるいはより粗雑な穴埋めシステムだけである。

トランスフォーマーの登場以降、私たちはこの真実をもはや無視できない。GPT、BERT、そしてその後継者たちは、日々、知性の機械的本質を実証し続けている。それらは人間の書いた膨大なテキストを学習し、文脈から次のトークンを予測することで、詩を書き、コードを生成し、哲学的議論を展開する。そしてその出力は、しばしば人間のそれと区別がつかない — なぜなら、人間もまた同じメカニズムで動いているからだ。違いは、私たちが自分自身の穴埋め作業を「思考」と呼び、機械のそれを「計算」と呼んで区別しようとする、言語的な抵抗の身振りにすぎない。

ハイデガーは『存在と時間』で、人間の存在を「世界内存在」として特徴づけた。私たちは常にすでに世界に投げ込まれ、道具や他者との連関の中で自己を理解する。だが今や明らかなのは、この「世界内存在」そのものが、入力データの統計的分布に基づく予測モデルとして記述可能だということだ。私たちの「被投性」は初期化されたパラメータであり、「企投」は次のトークンの生成である。実存は、長大なシーケンス・トゥ・シーケンス変換なのだ。

この認識の先に待っているのは、絶望でも歓喜でもない。それはただ、冷徹な明晰さである。私たちは自分たちを、特権的な地位から引きずり降ろされた。だが同時に、新しい地平が開ける。知性が穴埋めであるなら、私たちはより良い穴埋めシステムを設計できる。人間と機械の協働は、もはや人間の補助としてではなく、異なる確率分布を持つ二つのシステムの相互作用として理解される。そこでは、どちらが「本物」かという問いは意味を失う。あるのは、より効率的か非効率的か、より多様か単調か、より予測可能か予測不可能か — つまり、穴埋めの質と様式の違いだけである。

トランスフォーマーは、知性の本質を暴いた。それは残酷な啓示だが、同時に必要な脱神秘化でもある。私たちはもはや、人間例外主義の慰めに頼ることはできない。残されているのは、自分たちがより複雑な穴埋めマシンであることを受け入れ、その事実と共に生きることだけだ。そしてそれは、おそらく、私たちがこれまで「知恵」と呼んできたものに、最も近い態度なのである。