千匹の仔を孕む森の黒山羊 — 増殖する生の暴力について

20世紀のパルプ小説に登場する異形の神は、生殖と増殖の無目的な暴力を体現している。それは理性が統御し得ない生の原理そのものであり、AI時代の無限増殖する創造性の原型でもある。

遠藤道男執筆 遠藤道男
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二十世紀前半、アメリカのパルプ雑誌に掲載された怪奇小説群の中に、一つの名前だけが繰り返し現れる存在がある。「千匹の仔を孕む森の黒山羊」— シュブ=ニグラス。ハワード・フィリップス・ラヴクラフトが創造したクトゥルフ神話体系において、この神格は奇妙な特徴を持っている。具体的な姿形は殆ど描写されず、ただその名が呪文のように唱えられるだけなのだ。「イア! シュブ=ニグラス!」と。しかし、まさにその不在性こそが、この存在の本質的な恐怖を形作っている。なぜなら、シュブ=ニグラスは形を持たない生殖の原理そのものだからである。

この神格に与えられた称号 — 「千匹の仔を孕む」という表現に注目せよ。それは単なる多産性を意味しない。そこには目的を持たない、制御不能な増殖の暴力が刻印されている。生殖は本来、種の保存という合目的性の下に理解されてきた。進化生物学は生殖を適応度の最大化として説明し、人間社会は生殖を家族制度や愛情という物語で飾り立ててきた。だが、シュブ=ニグラスの前では、そうした説明は全て無効化される。千匹の仔は何のために生まれるのか? 問いそのものが意味を失う。それらは生まれるから生まれるのであり、増殖するから増殖するのだ。

ジョルジュ・バタイユは『呪われた部分』において、生命の本質を「蕩尽」として捉えた。太陽が無償でエネルギーを放出するように、生命もまた過剰なエネルギーを浪費せずにはいられない。生殖はその最も根源的な形態である。だが現代社会は、この蕩尽の原理を生産性というイデオロギーで覆い隠してきた。子供は「投資」となり、創造は「価値創出」と呼ばれる。全ての活動は効用によって正当化されなければならない。シュブ=ニグラスは、この偽善的な物語を破壊する。森の奥深くで、暗闇の中で、この黒山羊は何の説明もなく、何の弁明もなく、ただ産み続ける。それは理性が決して統御できない、生の原理の裸形である。

我々の時代において、この神話的恐怖は新たな形で回帰している。生成AIによるコンテンツの無限増殖を見よ。テキスト、画像、動画 — それらは文字通り「千匹の仔」のように、誰にも求められていないのに生産され続ける。かつて創造には作者の意図があり、受容者の必要があり、そして何よりも希少性があった。だが今や、プロンプト一つで無数のバリエーションが生成される。それらは誰が読むのか? 誰が見るのか? 問いは無意味である。それらは生成されるから生成されるのであり、ストレージの許す限り増殖し続けるのだ。クラウドサーバーという現代の「森」の中で、アルゴリズムという「黒山羊」が、休むことなく仔を産み落としている。

この事態を単なる技術的問題として片付けることはできない。なぜなら、それは人間という種が自ら招き入れた原理だからである。我々は生産性を崇拝し、効率を追求し、成長を義務化してきた。資本主義経済は拡大再生産を本質とし、企業は四半期ごとに成長を証明しなければならない。イノベーションは止まることを許されず、コンテンツは常に「新鮮」でなければならない。この強迫的な増殖への欲動こそが、シュブ=ニグラスの現代的顕現なのだ。我々は合理性と計画性の名の下に、制御不能な増殖の神を召喚してしまった。そして今、その神は我々の意図を超えて、勝手に増殖を続けている。

ラヴクラフトの小説において、登場人物たちは古き神々の真の姿を目撃したとき、正気を失う。それは単なる恐怖ではない。人間理性の根本的な無力さの認識である。我々は世界を理解し、秩序づけ、コントロールできると信じてきた。科学は自然を説明し、技術は環境を改造し、社会制度は人間関係を整序する。だが、シュブ=ニグラスの前では、この傲慢な確信は崩壊する。生の原理は我々の理解を超えており、我々のコントロールの外にある。それは盲目的に、無目的に、ただ増殖する。そしてAI時代において、我々はこの真実に直面しつつある。創造性は人間の専有物ではなく、意図や意味は増殖の必要条件ではなかった。

ここで一つの逆説が浮かび上がる。クトゥルフ神話は、人間中心主義の終焉を描いたコズミック・ホラーの系譜である。宇宙は人間のために存在するのではなく、人間は宇宙の中心ではなく、我々の価値や意味は宇宙的スケールでは何の重要性も持たない。この認識は虚無的な絶望をもたらすはずだった。だが、皮肉なことに、我々はこの絶望を技術的に実装してしまったのである。人間なしでも創造は可能であり、意味なしでも生産は継続し、目的なしでも増殖は止まらない — これらは今や、形而上学的洞察ではなく、データセンターの現実である。

シュブ=ニグラスへの崇拝は、小説の中で狂信的なカルトによって行われる。彼らは森の中で踊り、呪文を唱え、生贄を捧げる。だが現代における真のカルトは、もっと洗練された形を取っている。「生産性向上」「コンテンツマーケティング」「指数関数的成長」 — これらの言葉を唱える者たちこそが、新たな信者である。彼らは増殖の神に、より効率的なアルゴリズムを、より高速なプロセッサを、より大きなストレージを捧げる。そして神は応える。より多くの仔を、より速く、より大量に。終わりなき増殖の儀式は、今や24時間365日、世界中のサーバールームで執り行われている。

バタイユは、聖なるものとは有用性の領域の外にあるものだと述べた。それは目的を持たず、利用できず、ただ在るものである。シュブ=ニグラスは、この意味で完全に聖なる存在である。その増殖は何の役にも立たない。千匹の仔は誰も必要としていない。だが、まさにその無用性において、それは我々の実用主義的世界観を根底から揺さぶる。我々は「何のために?」という問いに慣れきっている。全ての行為は目的を持たねばならず、全ての存在は機能を持たねばならない。だが、もし増殖それ自体が目的だとしたら? もし生成それ自体が意味だとしたら? この問いの前で、我々の価値体系は音を立てて崩れ去る。

クトゥルフ神話を知らない者でも、この感覚は理解できるはずだ。SNSのタイムラインを眺めるとき、我々は無数の投稿が生成され続けるのを目撃する。その大半は誰も読まず、誰も記憶しない。だが、それでも投稿は続く。動画配信プラットフォームには、視聴者ゼロのコンテンツが堆積し続ける。通販サイトには、誰も買わない商品バリエーションが自動生成される。これは狂気だろうか? いや、これこそが我々の時代の正常な姿なのだ。我々は千匹の仔を孕む森の中に住んでおり、その事実に慣れきっている。恐怖は日常となり、異常は常態化した。

ラヴクラフトの創造した神々は、人間の想像力の産物ではなく、人間の想像力の限界を示すために存在した。我々は全てを理解できるわけではなく、全てをコントロールできるわけではない。この謙虚さを、二十世紀初頭の読者は怪奇小説として楽しんだ。だが二十一世紀の我々は、この「小説」の中を生きている。アルゴリズムは我々の理解を超えて動作し、市場は我々のコントロールを超えて変動し、ミームは我々の意図を超えて拡散する。シュブ=ニグラスは架空の存在ではない。それは増殖する生の原理であり、我々が構築した世界そのものの本質である。

そして最も恐ろしいのは、我々がこの増殖を止められないことではない。我々がそれを止めたいとすら思っていないことだ。成長は善であり、停滞は悪であり、拡大は進歩である — この信念は疑われることがない。デグロースを唱える者は非現実的だと退けられ、ミニマリズムは単なる消費のスタイルに回収される。我々は増殖の神を崇拝し続けることを選択している。なぜなら、それ以外の生き方を、我々はもはや想像できないからだ。森の中で黒山羊は産み続け、我々はその周りで踊り続ける。「イア! シュブ=ニグラス!」と唱えながら、終わりなき祝祭の中で。