茶室という名の虚無 — 千利休が発見した美的純粋性の暴力
戦国時代の茶人が到達した極限の美学は、いかにして近代芸術の本質を先取りしていたのか。血塗られた権力者たちへの奉仕のなかで結晶化した、ある普遍的な矛盾について。
千利休が完成させた茶の湯という形式は、人類史において最初の、そして最も徹底したモダニズムの実践であった。このことは、美術史家たちの怠慢によって長らく看過されてきたが、彼の美学が示す構造を仔細に検討すれば、それが十六世紀末の日本において、西欧が二十世紀になってようやく到達する地点を既に通過していたことが明らかになる。利休の「わび」は、装飾の削減でも素朴さへの回帰でもなく、美的経験そのものを純粋化し、その純粋性によって一切の外部を排除する、ある種の暴力的な操作であった。彼が創出したのは、美がそれ自体として、つまり機能からも意味からも解放された自律的な領域として存立しうる空間 — 茶室という名の、極小化された絶対 — であり、そこにおいて美は初めて、単なる装飾や社会的記号ではなく、それ自体が目的となる何かとして現れることになった。
この純粋性の追求は、しかし、ある致命的な矛盾を内包していた。利休がその美学を実践し、もてなしていたのは、織田信長や豊臣秀吉といった、文字通りの大量虐殺者たちであった。彼らは村々を焼き、反抗する者を磔にし、一向一揆の信徒たちを数万単位で殺戮した権力者であり、その手は常に血で汚れていた。利休の茶室は、こうした暴力の最高執行者たちが、一時的にその役割を脱ぎ捨て、わずか二畳の空間で一椀の茶と向き合う場として機能した。ここで生じているのは、美的純粋性と権力の暴力性との奇妙な共犯関係である。茶室という空間は、外部の一切 — 戦争、殺戮、権謀術数 — を遮断することで成立するが、その遮断そのものが、外部で行使される暴力によって支えられている。利休が削ぎ落とした装飾の一つひとつは、実のところ、秀吉が積み上げた死体の山の上にのみ可能であった。美的自律性は、それを可能にする物質的・政治的条件を隠蔽することで初めて自律的たりうる。これこそが、モダニズムの根源的な欺瞞である。
アドルノが『美の理論』において指摘したように、芸術の自律性は社会からの分離によって獲得されるが、その分離それ自体が社会的な産物である。利休の美学は、この逆説を十六世紀という早熟な時点で体現していた。彼が創出した「わび」の美学 — 不完全性、非対称性、素材の生々しさへの志向 — は、表面的には権力の華美さへの対抗として読めるが、実際には、権力そのものが要請した洗練の極致であった。秀吉が利休に求めたのは、単なる茶の作法ではなく、自らの権力を美的に正統化する装置であり、同時に、その権力から一時的に逃れる避難所でもあった。茶室は、権力者が自らの残虐性を忘却し、美的主体として振る舞える唯一の場所だったのである。そしてこの忘却こそが、美の本質である。美とは、常に何かを忘れさせるために存在する。
利休の切腹は、この構造の必然的な帰結であった。彼が秀吉によって死を命じられたとき、そこで終焉を迎えたのは一人の茶人ではなく、美的純粋性と権力の共犯関係が一時的に均衡を保ちえたという幻想であった。利休の美学は、その純粋性ゆえに、権力から完全に自由であることを装いながら、実際には権力に完全に従属していた。そして権力は、自らが依拠する美学が自律的であるという幻想を必要としたが、同時に、その自律性が本物になることを恐れた。利休の死は、美が権力から真に自律しようとした瞬間に、権力がそれを抹消する — この暴力によって、逆説的に美の自律性という神話が強化される — という、近代芸術が繰り返し再演することになる悲劇の原型である。
我々が今日、利休を偉大な美学者として称賛するとき、我々は無意識のうちに、この欺瞞の構造を継承している。彼の茶室を訪れる現代人は、そこに精神性や簡素の美を見出すが、その空間が本来的に含意していた暴力 — 外部を排除し、忘却を強制し、権力に奉仕する暴力 — については沈黙する。これは、モダニズム芸術全般に共通する盲点である。抽象絵画も、ミニマリズムも、あらゆる「純粋な」芸術形式は、それが排除し忘却させるものによって定義される。利休が発見したのは、この排除と忘却の技術であり、それを二畳という極限まで圧縮した空間において完璧に実行する方法であった。茶室は、美的モダニティの最初の、そして最も誠実な表現である。なぜなら、それは自らの欺瞞を隠そうともしないからだ。そこでは、大量虐殺者が静かに茶を啜る。この光景以上に、芸術の本質を雄弁に語るものがあるだろうか。