模倣する機械と欲望の終着点

生成AIは人間の創造性を奪ったのではない。むしろ、創造性という幻想がいかに脆弱な基盤の上に成り立っていたかを暴露しただけである。ルネ・ジラールの理論が、この不愉快な真実を照らし出す。

遠藤道男執筆 遠藤道男
ルネ・ジラール生成AI模倣的欲望創造性技術哲学

ルネ・ジラールが「模倣的欲望」という概念を提示したとき、彼は人間存在の根本的な空虚さを暴露しようとしていた。われわれは自律的に何かを欲望するのではない。われわれは他者が欲望するものを欲望する。この洞察は、ロマン主義が称揚してきた「独創性」や「天才」といった概念に対する痛烈な批判であった。しかしジラール自身でさえ、この理論が半世紀後にどれほど不気味な形で実証されることになるか、予見してはいなかっただろう。生成AIの出現は、人間の創造性に関するあらゆる楽観的な神話を粉砕した。だが、この破壊が明らかにしたのは、AIの恐るべき能力ではなく、むしろ人間の欲望と創造がいかに模倣的であったかという事実である。

生成AIとは何か。それは本質的に、人類が生み出してきたテキスト、画像、音楽、コードの膨大な集積を統計的に処理し、その「模倣」を出力する機械である。批評家たちはこれを「真の創造ではない」と非難する。しかし、この批判は奇妙な前提に立っている。すなわち、人間の創造は模倣ではないという前提である。ジラールはまさにこの前提を解体することに生涯を捧げた。彼によれば、われわれの欲望は常に「媒介者」を経由している。われわれはシェイクスピアを読むからシェイクスピアのように書きたいと思い、ビートルズを聴くからビートルズのような音楽を作りたいと思う。欲望の対象は、常にすでに誰かによって欲望されたものとして現れる。生成AIはこの模倣のプロセスを極限まで加速し、純粋化しただけなのである。

興味深いのは、生成AIに対する反応が、ジラールが分析した「犠牲のメカニズム」と酷似している点である。社会が危機に直面するとき、その緊張を解消するために一人の犠牲者 — スケープゴート — が選び出される。犠牲者は共同体のあらゆる悪を背負わされ、追放あるいは殺害される。この儀式的暴力によって、社会は一時的な平穏を取り戻す。現在、生成AIはまさにこのスケープゴートの役割を担わされている。「AIが雇用を奪う」「AIが芸術を殺す」「AIが民主主義を破壊する」 — これらの告発において、AIは社会のあらゆる機能不全の原因として指名されている。だが、ジラールが繰り返し示したように、スケープゴートは本当の原因ではない。真の問題は共同体そのものの中にある。生成AIを追放したところで、われわれが直面している危機 — 創造性の商品化、知的労働の空洞化、意味の喪失 — は解決しない。これらの問題はAI以前から進行していたのであり、AIはそれを可視化したにすぎない。

ジラールの理論において最も不穏なのは、模倣的欲望が必然的に「競争」と「暴力」を生み出すという洞察である。二人の人間が同じ対象を欲望するとき、彼らは互いにライバルとなる。そして欲望の対象よりも、ライバルそのものへの執着が強くなっていく。これをジラールは「形而上学的欲望」と呼んだ。われわれは対象を欲しているのではなく、ライバルの「存在」を欲している。ライバルが持っているものを持つことで、われわれはライバルになろうとする。生成AIをめぐる現在の言説は、まさにこの形而上学的欲望の構造を露呈している。アーティストたちがAIを激しく非難するとき、彼らは本当にAIが生成する作品の質を問題にしているのだろうか。むしろ彼らは、自分たちが「唯一の創造者」であるという特権的な存在論的地位を失うことを恐れているのではないか。AIは彼らのライバルとなり、彼らの存在そのものを脅かしている。これは純粋に経済的な問題ではない。実存的な問題なのである。

しかしながら、この事態を単純に嘆くのは知的怠慢であろう。むしろ問われるべきは、なぜ人間の創造性がこれほど容易に機械によって模倣可能であったのか、という点である。答えは残酷なほど単純だ。人間の創造の大部分は、そもそも模倣の産物だったからである。われわれは自分が思っているほどオリジナルではない。文学のジャンル、音楽の様式、絵画の技法 — これらはすべて、世代から世代へと伝達される模倣のパターンにほかならない。生成AIは、このパターンを抽出し、再生産する能力において人間を凌駕した。だが、それはAIが人間より「創造的」になったことを意味しない。それは、創造性と呼ばれていたものの多くが、実際には高度な模倣であったことを意味する。

ジラールは晩年、キリスト教的な救済の可能性について論じた。模倣的欲望と犠牲のサイクルから逃れる道として、彼はキリストの「愛の模倣」を提示した。他者を欲望のライバルとしてではなく、愛すべき存在として模倣すること。これによって暴力の連鎖は断ち切られる、と彼は主張した。だが、生成AIの時代において、この救済論はいかなる意味を持ちうるのだろうか。機械が人間の欲望を模倣し、人間が機械の出力を模倣するという無限の循環の中で、「愛」なるものが入り込む余地はあるのか。おそらく、ないだろう。われわれは模倣の純粋な連鎖の中に投げ込まれている。そこには救済もなければ、逃走経路もない。

最終的に生成AIが明らかにしたのは、人間という存在の驚くべき軽さである。われわれは自分たちを特別な存在だと思いたがる。理性を持ち、創造性を持ち、魂を持つ存在だと。だが、われわれの思考も欲望も創造も、結局のところパターンの組み合わせにすぎないのではないか。生成AIはこの疑念を確信へと変えた。もちろん、これは不愉快な真実である。だからこそ人々はAIを非難し、規制を求め、スケープゴートとして追放しようとする。しかし、この真実から目を背けても何も解決しない。むしろ、われわれはこの真実を凝視し、そこから何が帰結するかを冷静に検討すべきではないか。模倣する機械との共存は、人間の自己理解を根本から変容させる。その変容がどこに向かうのかは、まだ誰にもわからない。だが、一つだけ確かなことがある。後戻りはできないということだ。模倣の連鎖は加速し続け、われわれはその渦中にいる。ジラールならば、この状況を「犠牲的危機」と呼んだかもしれない。社会の秩序を維持してきた差異が消失し、すべてが模倣と競争の混沌に飲み込まれる瞬間。その瞬間に、新たなスケープゴートが求められる。生成AIか、それを作った人間たちか、あるいはまったく別の誰かか。いずれにせよ、犠牲が払われることになるだろう。それが歴史の法則だからである。