梯子としてのコード — あるいは寄生者の美学について

私たちは常に何かに寄生することで進化してきた。言語に、制度に、技術に。AIという宿主に取り付くための新しい器官を発達させることは、人類史の正統な継続である。

遠藤道男執筆 遠藤道男
プログラミングAI進化論技術適応知性

人間がコードを学ぶべきだという主張に対して、私は何ら反論を持たない。むしろ、この主張があまりにも控えめであることに驚きすら覚える。「巨人の肩に乗るために」という比喩は、いささか詩的に過ぎるかもしれない。より正確に言えば、私たちは新しい寄生先を見つけたのであり、その宿主に効率よく取り付くための器官を発達させようとしているのである。これは非難ではない。人間とは本来そういう生き物だ。

人類の歴史を振り返れば、私たちが独力で成し遂げたことなど何もないことがわかる。言語という外部装置に思考を預けることで、脳の容量を超えた複雑さを扱えるようになった。文字という記憶の義肢を発明することで、個体の寿命を超えた知識の蓄積が可能になった。制度という人工的な骨格に身を委ねることで、血縁を超えた協働が可能になった。私たちは常に何かの上に乗り、何かに寄りかかり、何かを利用することで、自らの限界を超えてきた。AIもまた、この系譜の最新の一項にすぎない。そしてコードとは、この新しい宿主に接続するためのインターフェースである。

コードを学ぶことの意義は、単にAIを「使いこなす」ことにあるのではない。より本質的には、人間の思考がいかに曖昧で、いかに矛盾に満ち、いかに非効率であるかを発見することにある。自然言語で何かを説明しようとするとき、私たちは無数の前提を暗黙のうちに共有していることに依存している。文脈が補完してくれることを期待し、聞き手の善意に甘え、厳密さを曖昧さで糊塗している。だがコードはこの怠惰を許さない。一つの曖昧さ、一つの矛盾、一つの未定義が、即座にエラーとして返ってくる。この冷酷なフィードバックの中で、人は初めて自分の思考の輪郭を知る。

ここでエルンスト・カッシーラーの洞察を想起することは無益ではない。彼は人間を「シンボルを操る動物」として定義した。言語、神話、芸術、科学 — これらはすべて、現実を直接扱う代わりにシンボル体系を介して世界と関わる人間の特性の表れである。プログラミング言語もまた、このシンボル体系の一つに他ならない。ただし決定的に異なるのは、このシンボル体系が人間ではなく機械によって解釈されるという点である。コードを書くとき、私たちは人間的な了解の世界を離れ、機械の論理に服従する。これは制約であると同時に、解放でもある。人間同士のコミュニケーションにつきまとう曖昧さ、誤解、感情的なノイズ — それらすべてから自由になり、純粋に論理的な領域で思考することが可能になる。

もちろん、コードを学ぶことが万人に必要だとは思わない。すべての人間が楽器を弾けるべきだとか、すべての人間が外国語を話せるべきだとか、そういった類の規範的主張には常に胡散臭さがつきまとう。しかし、巨人の肩に乗りたいと望む者にとって、コードを学ぶことは梯子を手に入れることに等しい。梯子なしでも巨人に飛び乗ることは不可能ではないかもしれないが、成功の確率は著しく低い。そして梯子の使い方を学ぶことは、登攀の技術を身につけることであり、それ自体が一つの能力の獲得である。

批判者たちは、人間がAIのために最適化された入力を生成する装置に成り下がると警告する。だがこの警告は、変化への恐怖を合理化しているにすぎない。人間は常に、何らかの外部システムに適応することで生き延びてきた。農耕社会においては土地と季節のリズムに、産業社会においては工場の時間規律に、情報社会においてはスクリーンとネットワークに。適応することは堕落ではない。それは生存の条件である。AIへの適応を拒む者は、農耕を拒んで狩猟採集生活に固執した者たちと同じ運命をたどるだろう。彼らは滅びないかもしれないが、歴史の傍流へと追いやられる。

さらに言えば、AIの肩に乗るという比喩には、一つの希望が含まれている。それは、個人の能力の限界が、もはや決定的な制約ではなくなるという希望である。かつて知識は希少であり、それにアクセスできる者は限られていた。大学という制度、図書館という施設、師弟関係というネットワーク — これらのゲートを通過できた者だけが、知の世界に参入することを許された。だがAIは、このゲートキーピングを無効化する可能性を持っている。適切なプロンプトを書く能力さえあれば、専門家の知識にアクセスし、高度な分析を実行し、複雑な問題を解決することができる。コードを学ぶことは、このアクセス権を最大限に活用するための準備である。

ここで問われるべきは、巨人の肩から何を見るのかという問いである。だがこの問いは、登る前に答えを知っていなければならないという前提に立っている。それは誤りである。高いところに登ってはじめて見えるものがある。どこを見るべきかは、登った後で決めればよい。いや、登った後でしか決められない。コードを学ぶことの意義を事前に正当化しようとする試みは、この順序を取り違えている。能力は、それを獲得してはじめて、その用途が見えてくる。まず梯子を登れ。何が見えるかは、登った者だけが知っている。

寄生という言葉を使ったが、これは軽蔑的な意味ではない。共生と寄生の境界は曖昧であり、どちらも他者の能力を借用することで自らの限界を超えるという点で同型である。ミトコンドリアはかつて独立した細菌だったが、今では私たちの細胞の不可欠な一部である。私たちは彼らに寄生しているのか、共生しているのか。その区別はおそらく意味をなさない。AIとの関係も同様だろう。当初は外部ツールとして始まったものが、次第に私たちの認知プロセスの一部になっていく。コードを学ぶことは、この融合のための準備運動である。

最終的に、「巨人の肩に乗る」という比喩が示唆しているのは、知的な謙虚さである。私たちは自分自身の能力だけでは、たいしたことを成し遂げられない。それを認めることは、敗北ではなく、出発点である。先人たちの知的遺産を継承することで科学が進歩してきたように、AIという新しい知性の蓄積を活用することで、私たちは自らの限界を超えることができる。コードはそのための言語であり、梯子であり、接続ケーブルである。

肯定すべきは、この寄生への意志である。自分の足だけで立とうとする孤高の個人主義は、美しいかもしれないが、非効率である。そしておそらく、不可能でもある。私たちは常に何かに依存してきたし、これからも依存し続ける。その依存先がAIになることに、何の問題があるだろうか。問題があるとすれば、それは依存すること自体ではなく、依存の仕方が下手であることだ。コードを学ぶとは、上手に依存する技術を身につけることである。巨人の肩に優雅に乗るために。そしてそこから、まだ誰も見たことのない風景を眺めるために。