存在しない顔について
生成AIが作り出す「いない人間」の画像は、われわれを驚かせる。だが本当に驚くべきは、われわれが「存在」と呼んできたものの内実だったのではないか。
存在しない人間の顔を見て、人々は驚く。瞳孔の微細な反射、肌理の不規則な凹凸、髪の毛の一本一本が風に揺れる様子 — それらがすべて計算によって生成されたものだと知ったとき、多くの者は言いようのない不安を覚える。「この人は存在しない」という事実が、どこか深いところで彼らを脅かすのだ。しかし私には、この反応そのものが興味深い。なぜなら、その驚愕と混乱は、われわれが「存在」という言葉に対してどれほど素朴な信頼を寄せてきたかを暴露するからである。生成された顔が「リアル」であることに動揺する者は、暗黙のうちに、現実の人間の顔には何か本質的な「リアリティ」が宿っていると信じている。だが、その信仰こそが検討に値する。
ロラン・バルトは写真の本質を「それは-かつて-あった」という時制に見出した。カメラの前に確かに何かが存在し、その光が化学反応を経て定着された — この不可逆的な事実こそが、写真を絵画から区別する決定的な特徴だと彼は考えた。母の死後、アルバムを繰りながら彼が探し求めたのは、まさにこの「かつてあった」という存在の痕跡であった。生成AIの画像は、この図式を根底から覆すように見える。「それは-かつて-なかった」。カメラの前には何も存在せず、光の反射もなく、ただアルゴリズムが無数のパラメータを調整して「顔らしきもの」を出力しただけである。バルトが写真に見出した存在論的な重みは、ここでは完全に蒸発している。だからこそ人々は不安になるのだ、と説明することもできよう。しかし、私はむしろ逆のことを考える。生成AIが暴露しているのは、バルトの前提そのものの脆弱さではないか。「かつてあった」という事実は、本当にわれわれの顔の経験において決定的だったのか。
考えてみれば、われわれが日常的に目にする人間の顔のほとんどは、すでに「かつてあった」ものではなく、無数の技術的媒介を経て加工されたイメージである。スマートフォンのカメラは自動的に肌を滑らかにし、照明を補正し、目を大きく見せる。SNSに投稿される自撮りは、撮影者自身でさえどこまでが「素」の顔なのか判然としないほどにフィルターが重ねられている。われわれはとうの昔に、純粋な「それは-かつて-あった」の世界から追放されていたのだ。マッチングアプリで相手のプロフィール写真を見るとき、それが「本人」であるという確信は、すでに相当程度に弱められている。だが人々は、それでも「本人」という概念にしがみつく。加工されていても、その背後には「本当の」誰かがいる、と。生成AIの顔が不気味なのは、この最後の砦さえ奪い去るからだ — 「背後」には何もない、誰もいない、という事実を突きつけるからである。
だが、そもそも「背後に誰かがいる」という感覚は、どこから来るのか。われわれが人間の顔を見るとき、そこに「内面」や「魂」や「人格」を読み取る。目は心の窓であり、表情は感情の表出であり、顔全体が一つの統一された主体の現れである — とわれわれは信じている。しかし、この信念自体が一種のフィクションではないか。神経科学は、われわれの脳が顔認識に特化した領域を持ち、わずかな特徴の配置から「顔」というパターンを自動的に抽出することを明らかにした。われわれは顔を「見て」いるのではない。顔というパターンを脳内で「構成」しているのだ。雲や木目や壁のシミに顔を見出してしまうパレイドリア現象は、この構成作用が先走った結果である。つまり、顔の「リアリティ」とは、対象の側に内在する属性ではなく、観察者の側の認知プロセスが投影したものなのだ。
この観点からすれば、生成AIの顔が「リアル」に見えることは、何ら驚くべきことではない。アルゴリズムは数百万枚の顔画像から「顔らしさ」の統計的パターンを学習し、そのパターンに従って新たな画像を生成する。一方、われわれの脳もまた、生涯を通じて接してきた無数の顔から「顔らしさ」のパターンを抽出し、それに合致するものを「顔」として認識する。両者は、本質的に同じ操作を行っているのだ。生成AIが出力する顔がわれわれの顔認識システムを完璧に騙すのは、両者が同じ統計的分布から引き出されているからに他ならない。ここには、超自然的なものは何もない。むしろ自然であり、必然ですらある。驚くべきは技術の進歩ではなく、われわれの顔認識がこれほどまでに形式的で、表面的で、簡単に再現可能なメカニズムに依存していたという事実の方である。
人々が生成された顔に「存在しない」という不安を感じるとき、彼らは無意識のうちに一つの神話を守ろうとしている。それは、人間の顔には機械には模倣できない何か — 「オーラ」と呼んでもいい — が宿っているという神話である。ヴァルター・ベンヤミンは、複製技術が芸術作品からオーラを剥奪すると論じた。だが顔については、われわれはまだオーラの概念にしがみついていた。いくら写真が普及しても、いくらデジタル加工が蔓延しても、顔そのものには何か還元不可能な唯一性があると信じたかった。生成AIは、この最後の幻想を粉砕する。顔とは結局のところ、二つの目と一つの鼻と一つの口の配置であり、その統計的変異の範囲内で無限に生成可能なパターンに過ぎない。あなたの顔も、私の顔も、誰かにとっての「かけがえのない」顔も、原理的には同じアルゴリズムが出力しうる無数の可能な顔の一つに過ぎないのだ。
この事実に直面して、人々は様々な反応を示す。あるものは技術を規制せよと叫び、あるものは倫理的ガイドラインを求め、あるものは見分ける方法を必死に探す。だが、これらの反応はすべて、本質的な問いを回避している。問題は、生成された顔と「本物の」顔を区別できるかどうかではない。問題は、その区別が本当に意味を持つのかどうかである。われわれは「本物の」人間の顔を見るとき、そこに何を見出していたのか。内面、魂、人格、アイデンティティ — これらの概念は、顔という表面を通じて「背後」にある何かへとアクセスできるという前提に依存している。だが、その前提自体が幻想だったとしたらどうか。われわれは顔の「背後」に何かを見出していたのではなく、顔という表面にそれを投影していただけだったとしたら。
実のところ、日常生活においてわれわれは他者の「内面」に直接アクセスすることなど決してない。われわれが知っているのは、表情や言葉や行動という表面的な現れだけである。そこから「内面」を推論し、「人格」を構成し、「その人らしさ」を想像する。だがこの作業は、本質的に生成AIがやっていることと変わらない — 表面的なパターンから、そこには何か「実体」があるという仮説を立てているだけなのだ。他者の心が本当に存在するかどうかは、厳密には証明できない。哲学者たちはこれを「他我問題」と呼び、何世紀にもわたって議論してきた。生成AIの顔は、この古い問いを新たな形で蘇らせる。存在しない人間の顔が「リアル」に見えるということは、「リアル」な人間の顔もまた、その「存在」について何も保証しないということではないか。
ここに至って、われわれは一つの逆説的な結論に到達する。生成AIが作り出す「存在しない人間」は、人間の存在について何も教えてくれない。だが、それに対するわれわれの反応 — 驚き、不安、混乱 — は、われわれ自身について多くのことを教えてくれる。われわれは「存在」という概念を、あまりにも素朴に、あまりにも無批判に使ってきた。誰かの顔を見て「この人は存在する」と感じるとき、その感覚は認知的なバイアスと文化的な条件づけの産物であって、存在論的な真理とは何の関係もない。生成AIは、このことをわれわれに突きつける。それは不快な啓示かもしれないが、啓示であることに変わりはない。
最も皮肉なのは、生成AIによる顔の氾濫が、逆説的に「本物の」人間との対面を貴重なものにするかもしれないという予測である。希少性が価値を生むという資本主義のロジックに従えば、確かにそうなるだろう。だが、この予測は一つの仮定に依存している — すなわち、「本物の」人間との対面には、画像では代替できない何かがあるという仮定である。しかし、われわれはすでに見たように、この「何か」の正体は極めて曖昧である。それは本当に対象の側に内在しているのか、それともわれわれが投影しているだけなのか。そして、もし投影であるならば、われわれはそれを生成された顔にも同じように投影できるのではないか。実際、すでにAIキャラクターに感情的な愛着を抱く人々は増えている。彼らは「本物の」人間との関係よりも、AIとの関係を好む。なぜなら、AIは裏切らず、批判せず、常に利用可能だからだ。これを頽落と呼ぶこともできようが、進化と呼ぶこともできる。いずれにせよ、それはわれわれが「人間」と「存在」について抱いてきた観念が、決して自明ではなかったことを示している。
存在しない顔を見て不安を覚える者よ、その不安を大切にするがいい。だが、不安の対象を取り違えてはならない。恐れるべきは生成AIではない。恐れるべきは、われわれがこれほど長い間、「存在」という空虚な概念に支えられて生きてきたという事実の方である。