膝を折れ、手を叩け — DAF「Der Mussolini」と1981年の身体的蕩尽について
1981年、デュッセルドルフから発せられた一曲の命令形は、独裁者の名を冠しながらダンスフロアを席巻した。そこで消費されていたのは何だったのか。
「膝を折れ、手を叩け、腰を動かせ、ムッソリーニを踊れ」 — 1981年、Deutsch Amerikanische Freundschaftがヴァージン・レコードから放った「Der Mussolini」の歌詞は、当時の西ドイツ社会に対する露骨な挑発であると同時に、ある種の予言でもあった。フランコ政権下のスペインから逃れた反ファシスト一家の息子ガビ・デルガド=ロペスが、ドイツ語で独裁者の名を連呼しながらダンスを命じるという構図には、戦後ヨーロッパが抱えてきた歴史的トラウマに対する底知れぬ冷笑が宿っている。しかし私が関心を寄せるのは、この曲が「何を批判していたか」ではない。むしろ、この曲が図らずも露呈させてしまった、人間の身体と権威の関係性における根本的な真理についてである。
DAFの音楽的特徴は、コルグMS-20とARP Odysseyによる単一のシーケンス・ラインと、ロベルト・ゲルルの執拗に反復するドラムパターンによって構成される極度のミニマリズムにあった。彼らはこれを「Körpermusik」 — 身体音楽 — と呼んだ。この命名は単なるマーケティング的なレトリックではなく、彼らが直感的に把握していた本質を示している。すなわち、音楽とは究極的には身体を動かすための装置であり、その装置が最も効率的に機能するとき、イデオロギーや意味内容は副次的なものとなる。「Der Mussolini」において、ムッソリーニもヒトラーもイエス・キリストも共産主義も、すべて等価なダンスのステップとして並列される。右に回れ、左に回れ、独裁者を踊れ、救世主を踊れ。この等価性こそが、20世紀の政治的記号が最終的に辿り着いた終着点を予告していた。
ジョルジュ・バタイユは「蕩尽」の概念を通じて、人間社会における過剰なエネルギーの非生産的消費について論じた。祭祀、戦争、贅沢、エロティシズム — これらはすべて、蓄積された余剰を破壊的に放出する行為である。バタイユにとって、この蕩尽こそが「至高性」への通路であり、功利的な計算を超えた領域への跳躍を可能にするものだった。「Der Mussolini」のダンスフロアで起きていたことは、まさにこの蕩尽の現代的形態である。ただし、そこで蕩尽されていたのは物質的な富ではなく、20世紀が生み出した政治的記号そのものだった。ファシズムの制服、ローマ式敬礼、独裁者の演説における「あのドイツ的な亀裂」(デルガド=ロペス自身の表現を借りれば) — これらの記号は、戦後数十年にわたって西ドイツ社会において禁忌として機能してきた。DAFはその禁忌を、汗まみれの身体運動のなかで消費し尽くすことを提案したのである。
興味深いことに、この曲はバイエルン州において放送禁止となった。しかしその理由は、アドルフ・ヒトラーへの言及ではなく、イエス・キリストを同列に置いたことだった。この事実は、1980年代初頭の西ドイツ社会における聖性の配置を如実に示している。戦後の「非ナチ化」によってヒトラーの名はすでに一定の脱聖化を経ていたが、キリスト教的聖性はいまだ不可侵のものとして温存されていた。DAFの真の挑発性は、ファシズムを批判したことにあるのではなく、あらゆる権威的記号を — 政治的であれ宗教的であれ — ダンスフロアという蕩尽の空間において等価なものとして扱ったことにある。膝を折れという命令は、祈りの姿勢であると同時に服従のジェスチャーでもあり、またダンスの動作でもある。この三重性のなかで、聖と俗、支配と被支配の境界は溶解する。
DAFのライブには、しばしばアイロニーを理解しないネオナチたちが現れた。彼らは文字通りの意味でムッソリーニを踊りに来たのであり、デルガド=ロペスはあるとき、そうした観客の一人にキスをすることで無力化したという逸話が残っている。この挿話は、単なる反ファシズム的なジェスチャーとして読むこともできるが、私はそこにより深い構造を見出す。すなわち、あらゆるイデオロギーは最終的に身体的な接触、身体的な消費によって解体されうるということ。ネオナチの硬直した身体は、同性愛的なキスという予期せぬ蕩尽行為によって、そのイデオロギー的緊張を失う。権威の記号は、身体の過剰な近接性のなかで意味を剥奪されるのである。
「Der Mussolini」から40年以上が経過した現在、私たちはDAFが予告していた世界のただなかにいる。政治的記号はSNS上で無限に複製され、消費され、次の瞬間には忘却される。かつては禁忌であったイメージが、ミームとして流通し、いかなる深刻さも持ちえなくなる。これを「ファシズムの復活への警鐘」として読む者もいるだろう。しかし私は、むしろそこにDAF的な蕩尽の論理の全面化を見る。記号はもはや権威を担うことができない。なぜなら、あらゆる記号は生まれた瞬間からダンスフロアに投げ込まれ、身体的消費の対象となることを運命づけられているからである。
デルガド=ロペスは2020年、心臓発作により61歳で死去した。彼の身体は、彼自身が数十年にわたって説いてきた蕩尽の論理に従って、最終的に消尽した。しかし「Der Mussolini」の命令形は今もなお反復される。膝を折れ、手を叩け、腰を動かせ。この命令に従う身体は、もはや何を踊っているのかを問わない。ムッソリーニであれヒトラーであれキリストであれ、あるいは今日のいかなる権威者であれ、すべては等価なステップとして消費される。これが1981年にデュッセルドルフから発せられた予言の成就であり、私たちが生きる時代の — おそらくは永続的な — 条件である。
コニー・プランクのプロダクションによる、あの下降するシンセサイザーのシーケンスを聴くとき、私は奇妙な安堵を覚える。そこには、意味の重荷から解放された身体の歓びがある。右に回れ、左に回れ。方向の指示は政治的な隠喩であることをやめ、純粋な運動の命令となる。バタイユが「至高性」と呼んだものは、おそらくこのような瞬間に宿る。功利性から解放され、意味の牢獄から脱出した身体が、ただ動くことそれ自体のために動く瞬間。「Der Mussolini」は、その瞬間への招待状であり、同時に、その瞬間以外には何も残らないという冷徹な宣告でもあった。