百年の欺瞞 — あるいは現代アートがかくも簡単にAIに喰われた理由

便器を美術館に置いた瞬間から、この結末は決まっていた。百年かけて準備された空虚が、ついにその本性を現す。

遠藤道男執筆 遠藤道男
現代アートAIボードリヤールシミュラークル美学

現代アートがAIによって「脅かされている」という言説は、根本的な誤認に基づいている。脅かされるためには、そもそも守るべき何かが存在していなければならない。しかし現代アートは — 少なくとも二十世紀後半以降の、いわゆるコンテンポラリー・アートは — すでに自らの手で自身の存在根拠を解体し尽くしていた。AIが行ったのは侵略ではなく、単なる検死である。死体の腐敗が進行していたことを、より広い観衆の前で明らかにしただけのことだ。

一九一七年、マルセル・デュシャンが男性用小便器を横倒しにして「泉」と名付け、展覧会に出品しようとしたとき、彼は確かに何かを達成した。芸術作品の価値が技術的卓越性にも、美的感動にも、職人的熟練にも依存しないことを示したのである。必要なのはコンセプトであり、文脈であり、制度的承認であった。これは当時、解放として機能した。画家は遠近法の奴隷である必要がなくなり、彫刻家は大理石を彫る苦行から逃れられた。しかし解放は常に、その先にある虚無を覆い隠す煙幕でもある。デュシャンの身振りが意味したのは、究極的には「誰でも、何でも、いつでもアートになりうる」ということであり、その論理的帰結は「何もアートではない」ということと区別がつかない。百年をかけて、現代アートはこの帰結に向かって忠実に歩み続けてきた。バナナをテープで壁に貼り付けて一億円で売却する段階に至って、我々は終点にかなり近づいていたはずだが、まだ誰もそれを認めようとしなかった。AIの出現は、この集団的な自己欺瞞を維持することをついに不可能にした。

ボードリヤールは、現代においてオリジナルとコピーの区別が消滅し、すべてがシミュラークル — 起源なき模像 — となると論じた。彼の診断は主にメディアと消費社会に向けられていたが、現代アートほどこの概念が適切に当てはまる領域はない。考えてみれば、コンセプチュアル・アートとは定義上シミュラークルである。「アイデアこそが作品である」と宣言した瞬間、作品は無限に複製可能になり、「本物」という概念は消滅する。ダミアン・ハーストの「神の愛のために」 — 八千六百個のダイヤモンドで覆われた人間の頭蓋骨 — において、オリジナルとは何か。頭蓋骨か、ダイヤモンドか、組み合わせのアイデアか、それを「アート」として認定する美術界の合意か。すべてが交換可能であり、すべてが同等に空虚である。AIは、この空虚を工業的規模で生産する能力を獲得した。一秒間に数十のコンセプトを生成し、数秒で視覚化し、無限のバリエーションを提示する。現代アートが百年かけて到達した地点に、機械は一瞬で追いついた。追いついたというより、そこには最初から何もなかったことを証明してしまった。

現代アートの擁護者たちは、「人間の意図」「作家の苦悩」「文脈の深み」といった概念を持ち出して反論を試みる。AIには人間のような実存的苦悩がない、生きられた経験がない、死への不安がない、だからその生成物は真のアートではない、と。しかしこの議論は二重の意味で破綻している。第一に、現代アートはそうした人間的要素を価値の源泉としてきたわけではない。むしろ作家の主観性を排除し、感情を脱色し、「クール」で「知的」であることを至上価値としてきた。ウォーホルは「機械になりたい」と公言し、自らの工房を「ファクトリー」と呼んだ。ジェフ・クーンズは作品制作を完全に外注し、自分では絵筆を握らない。現代アートは自ら人間性を放棄してきたのであり、今さらそれを防壁として持ち出すのは欺瞞である。第二に、より根本的なことだが、作家の意図や苦悩は作品の外部にあり、鑑賞者にとって直接知覚可能ではない。我々が作品を見るとき、そこに「人間が作った」という事実を読み込むのは、事後的な解釈的行為に過ぎない。AIが生成した作品を「人間の作品」として提示されれば、ほとんどの人間は区別できない。いや、すでに何度もそうした実験は行われ、専門家さえ欺かれてきた。存在しない「意図」を読み取り、存在しない「深み」を称賛してきたのである。

ここに現代アートの本質的な脆弱性がある。それはつねに制度と言説に依存してきた。ギャラリー、美術館、批評家、キュレーター、オークションハウス、コレクター — このエコシステムが「これはアートである」「これには価値がある」と認定することによってのみ、現代アートは存在できた。作品それ自体には自律的な価値がない。便器が傑作になるか、ゴミになるかは、それがどの文脈に置かれるかによって決まる。この構造は、権威が機能している限りにおいて維持される。しかしAIは、この権威の恣意性を誰の目にも明らかにしてしまった。AIが数秒で生成した画像が、人間のアーティストが数ヶ月かけた作品と区別できないとき、「制度的認定」以外の何が価値を担保するのか。そして制度的認定とは、結局のところ、一部の人間の主観的判断、あるいはもっと即物的に言えば、市場における投機的価値の反映に過ぎない。AIアートの氾濫は、現代アートの皇帝が裸であることを暴露した子供の役割を果たした。

興味深いのは、伝統的な意味での「美術」 — 絵画、彫刻、工芸といった、技術的卓越性を価値の核心に置く営み — は、AIによってそれほど脅かされていないことだ。もちろんAIは写実的な絵画を生成できるし、その技術は日々向上している。しかし油絵具を物理的なキャンバスに塗り重ねる行為、大理石を鑿で彫る行為、陶土を轆轤で成形する行為、これらには還元不可能な物質性がある。そしてその物質性を極限まで追求するとき、そこには職人的熟練という、AIには — 少なくとも現時点では — 再現できない何かが残る。伝統工芸が現代アートよりもAIに対して堅牢であるというのは、歴史の皮肉というべきだろう。前衛を自認し、未来を志向してきた現代アートが、最新のテクノロジーによって無効化され、古臭いと軽蔑されてきた手仕事がその価値を保つ。弁証法は常にこうした反転を通じて進行する。

結局のところ、現代アートの終焉は、美の否定に対する長期的な報いである。二十世紀の前衛は、美を「ブルジョワ的」「装飾的」「表層的」として退け、代わりにショック、挑発、知的遊戯を追求した。しかし美を否定することは、芸術を芸術たらしめる唯一の超越的根拠を否定することでもあった。コンセプトは言葉で代替できる。挑発は広告が行う。知的遊戯は哲学の領分である。美だけが、芸術に固有の何かであり得た。それを放棄したとき、現代アートは自らを他のあらゆる記号的実践と区別不可能なものにした。AIはまさにそうした記号的操作の達人として登場したのであり、現代アートが自ら招き入れた敵なのである。これは悲劇ではない。百年にわたる壮大な自殺の完遂であり、ある種の整合性さえ感じさせる結末だ。廃墟の上に何が建つのか、それはまだ誰にもわからない。しかし少なくとも、虚構を維持するための労力から解放されたことは、一種の救いかもしれない。