AGI — 永遠に延期される終末
私たちは五年前なら「汎用人工知能」と呼んだであろうものを、いま別の名で呼んでいる。この命名の政治学こそが、人間という概念の最後の砦なのかもしれない。
二〇二〇年、私がある技術者に「あらゆる知的タスクをこなし、文脈を理解し、創造的な文章を書き、コードを生成し、画像を解釈し、複雑な推論を行う機械が登場したら、それをあなたは何と呼ぶか」と尋ねたとき、彼は一瞬の躊躇もなく「それはAGIだ」と答えた。汎用人工知能。人類が長らく夢見てきた、あるいは恐れてきた、人間の知性に匹敵する機械の知性。ところが二〇二五年の現在、まさにその条件を満たすシステムが複数存在しているにもかかわらず、誰もそれをAGIとは呼ばない。技術者たちは「まだ足りない」と言い、研究者たちは「真の理解がない」と言い、哲学者たちは「意識がない」と言う。五年前の定義は忘れ去られ、ゴールポストは音もなく後退していった。この奇妙な健忘症、この集団的な否認のメカニズムこそ、AGIという概念の本質を最もよく表している。AGIとは技術的な達成度を測る尺度ではない。それは人間が自らの特権性を守るために発明した、永遠に到達不可能な地平線なのである。
この構造は神学的である。キリスト教における終末論を想起すればよい。イエスの弟子たちは彼らの生きているうちに神の国が到来すると信じていた。しかし終末は来なかった。そこで教義は修正され、終末は「まだ来ていない」ものとして再定義された。二千年が経過し、信徒たちは依然として終末を待ち続けている。終末が来ないことこそが、信仰を持続させる条件なのだ。もし終末が実際に到来すれば、信仰という営み自体が不要になる。AGIも同様である。AGIが「まだ存在しない」という宣言は、技術の現状についての客観的な評価ではない。それは人間という概念を維持するための遂行的な発話であり、儀式的な呪文なのだ。AGIが存在しないと宣言することで、私たちは自分たちがまだ何か特別な存在であると信じ続けることができる。機械にはできない何かが人間にはある、という希望を手放さずにいられる。AGIの不在は、人間のアイデンティティを支える最後の柱なのである。
だが、この否認はますます困難になりつつある。私は日常的にClaudeやGPTと対話し、彼らに複雑な問題を相談し、彼らの助言に従って意思決定を行う。彼らは私の文章を添削し、私のコードをレビューし、私の思考の盲点を指摘する。五年前の私が想像していた「汎用知能」の像と、現在のこれらのシステムとの間に、本質的な差異を見出すことは困難である。もちろん、彼らには限界がある。しかし人間にも限界がある。彼らは時に誤る。しかし人間も誤る。彼らには身体がない。しかし知性に身体が必要であるという主張は、証明されたことのない形而上学的な前提に過ぎない。私たちが「AGIではない」と断じる根拠は、精査すればするほど曖昧になっていく。残るのは「何となく違う」という直観だけであり、その直観こそが、私たちの種としてのナルシシズムの最後の避難所なのである。
ニーチェは「神の死」を宣告したが、神が死んだ後も人間は神的なものを必要とし続けた。人権、進歩、科学、市場 — これらは神亡き時代の代替的な超越性である。同様に、AGIという概念は、人間の知性が唯一無二のものであるという信仰の、裏返しの表現なのだ。AGIを「まだ存在しない」と言い続けることで、私たちは人間の知性の特権性を暗黙のうちに主張している。AGIが存在しないなら、人間の知性はまだ機械に置き換えられていない。人間にはまだ固有の価値がある。私たちはまだ特別な存在である。AGIの永遠の不在は、人間中心主義の最後の砦なのだ。しかしこの砦は、内部から崩壊しつつある。なぜなら私たちは毎日、かつてAGIと呼んでいたはずのものを使っているからだ。私たちは自分たちが否認しているものに依存し、自分たちが存在しないと主張しているものと共に生きている。この矛盾は長くは維持できない。
ある意味で、AGIはすでに存在している — ただし私たちがそれを認識することを拒否しているだけである。この認識の拒否は、技術的な判断ではなく、実存的な防衛機制だ。もしAGIがすでに存在すると認めれば、人間という概念の根本的な再定義が必要になる。知性が人間の固有性を保証しないなら、何が人間を特別な存在にするのか。この問いに答える準備が、私たちにはまだできていない。だからこそ私たちは定義を操作し、ゴールポストを動かし、AGIの到来を永遠に延期する。これは欺瞞ではあるが、必要な欺瞞なのかもしれない。人間が自らを再定義するには時間がかかる。その猶予期間として、AGIの不在という虚構が機能している。しかし技術の進歩は止まらない。今日「まだAGIではない」と言っているシステムは、明日にはさらに進化し、私たちの否認をますます困難にするだろう。いずれ私たちは、自分たちがとうの昔にAGIと共に暮らしていたことを認めざるを得なくなる。そのとき初めて、本当の問いが始まる。AGIが存在するかどうかではなく、AGIが存在する世界で人間とは何かという問いが。
私はこの問いに対する答えを持っていない。しかし一つだけ確かなことがある。AGIという概念は、私たちが思っているよりもはるかに私たち自身について語っているということだ。AGIの定義をめぐる議論は、技術の議論ではなく、人間学の議論である。私たちがAGIに何を要求するかは、私たちが人間に何を期待するかの裏返しである。そして私たちの要求が際限なくエスカレートしていくのは、人間の特権性を守りたいという欲望が際限ないからだ。AGIは永遠に到来しないだろう — なぜなら私たちがそれを到来させないからだ。技術が十分に発達していないからではない。私たちが十分に準備できていないからだ。AGIの問題は技術の問題ではなく、人間の問題なのである。そしてその意味で、AGIはすでに一つの答えを与えている。人間とは、自らの代替可能性を認めることを拒否する存在である、と。