十億ドルの孤独 — ワンマンユニコーンが棲息する荒野について
かつて企業とは人間の集合だった。いまやターミナルの前に座る一人の人間が、AIとともに十億ドルの評価額を叩き出す。だが誰もが王になれる世界で、王という概念にまだ意味はあるのか。
誰かがまた一人で十億ドル企業をつくったらしい — そういうニュースを我々は朝のコーヒーとともに消費し、昼には忘れる。二〇二〇年代の前半まで、ユニコーン企業の誕生は少なくとも業界紙の一面を飾る程度の事件だった。共同創業者たちの美談があり、ガレージ神話があり、ピボットの武勇伝があった。投資家たちは「チームに投資する」と繰り返し、人事担当者は「カルチャーフィット」なる概念を神学的な厳密さで運用していた。それが今や、三十四歳の男がアパートの一室でターミナルを開き、AIコーディングエージェントに指示を出し続けた結果として時価総額十億ドルの法人が出現する。従業員はゼロ、オフィスもゼロ、ウォーターサーバーの前で交わされる気まずい雑談もゼロ。かつてピーター・ドラッカーが「企業の目的は顧客の創造である」と述べたとき、彼はおそらく顧客を創造する主体が文字通り一個の肉体であるような事態は想定していなかっただろう。だがここに我々はいる。
この現象を前にして、知識人たちは例によって二つの陣営に分かれる。一方はユートピアを宣言する。万人が起業家になれる時代、資本へのアクセスが民主化された世界、もはや誰もパワーポイントの奴隷にならなくてよい楽園。他方はディストピアを警告する。雇用の消滅、富の極端な集中、人間関係の最後の砦であった職場の崩壊。どちらの陣営も、自らの主張を裏付ける統計をAIに生成させている点において、すでにこの時代の構造的な喜劇に参加している。私はどちらにも与しない。なぜなら、ここで起きていることはユートピアでもディストピアでもなく、そもそもそのどちらかであるという前提そのものが、我々がもはや手放すべき古い思考様式だからだ。
ライプニッツは万物の究極的な構成要素を「モナド」と呼んだ。それは窓を持たない、自己完結した実体である。外部から何かが入ってくることもなければ、内部から何かが出ていくこともない。にもかかわらず各モナドは宇宙全体を自らのうちに映し出している。ワンマンユニコーンの創業者とは、まさにこのモナド的存在の経済的実現ではないか。彼あるいは彼女は、物理的には完全に孤立している。チームミーティングもなければ一対一の面談もない。スラックの通知音に覚醒を中断されることもない。しかしAIエージェントを介して、彼らは市場全体を — 需要の微細な振動から競合の戦略的転換まで — 自己の内部に折り畳んでいる。窓のない部屋から、世界の全体像を操作する。ライプニッツがこの光景を見たら、おそらく自分の形而上学が三百年の時を経てサンフランシスコの家賃相場と接続されたことに、ある種の感慨を覚えるだろう。あるいは覚えないだろう。彼は結局のところ数学者でもあった。
だが問題の核心は技術でも経済でもなく、人間の自己理解の変容にある。分業とは単なる効率化の方法ではなかった。それは人間が自らの不完全さを受け入れ、他者を必要とすることを制度化した仕組みだった。私はコードが書けないからエンジニアを雇う。私はデザインのセンスがないからデザイナーを雇う。私は人前で話すのが苦手だから営業担当を雇う。こうした欠落の連鎖が、企業という名の共同体を成立させていた。欠落こそが関係の条件だった。ところがAIコーディングエージェントは、この欠落を一つずつ埋めていく。コードが書けない?エージェントが書く。デザインができない?エージェントが生成する。マーケティングの知識がない?エージェントが最適化する。欠落が消えるとき、他者を必要とする理由もまた消える。ワンマンユニコーンの創業者は、万能になったのではない。欠落を外部化する先が、人間からAIに移行しただけだ。しかしこの「だけ」が途方もなく大きい。なぜなら人間に欠落を埋めてもらうことには、感謝や負い目や連帯や軋轢 — つまり関係性のすべて — が伴うが、AIにそれを委ねることには何も伴わないからだ。
ここにこの現象の真に滑稽な側面がある。かつてスタートアップの創業者たちは「世界を変える」と宣言し、その壮大な使命感が人材を引きつけた。ビジョンを語り、文化を醸成し、チームを鼓舞した。いまやその全プロセスが不要になった。ビジョンはプロンプトに変換され、文化は.cursorrulesファイルに記述され、鼓舞すべき対象はtmuxのペインの中で静かにトークンを消費しているだけだ。創業者は誰かを説得する必要がない。誰かの承認を得る必要がない。誰かの感情を慮る必要がない。彼は完全に自由であり、完全に孤独である。そしてこの自由と孤独の区別がつかなくなる地点こそ、我々がいま到達しつつある場所だ。
さらに滑稽なのは、こうしたワンマンユニコーンの創業者たちが、実際には驚くほど似通った人間だということだ。彼らは概してミニマリストであり、同じような黒いTシャツを着て、同じようなターミナルエミュレータを使い、同じようなノートロピクスを摂取している。プロフィールには「building」とだけ書かれている。彼らは個性の時代の産物でありながら、その個性は奇妙なほど均質だ。なぜか。答えは簡単で、彼らの「個性」とされるものの大部分は、実はAIエージェントとの対話の中で最適化された行動パターンにすぎないからだ。効率的にプロンプトを書ける生活様式、ノイズを最小化した環境設計、判断疲労を回避する衣食住の定型化 — これらはすべて、AIとの協働を最大化するための収束進化の結果である。彼らは自分がユニークだと信じている。AIエージェントは何も言わない。
ではこの先に何が待っているのか。ユートピア論者は万人の解放を語り、ディストピア論者は万人の孤立を語るが、実際に到来しつつあるのはもっと散文的なものだ。一人で十億ドル企業をつくれる世界では、十億ドル企業をつくること自体がもはや特別ではなくなる。希少性が消えるとき、価値もまた蒸発する。すると何が起きるか。おそらく、人々はユニコーン企業を日曜大工のように運営し始めるだろう。趣味としてのSaaS、週末のマーケットプレイス、気晴らしのフィンテック。収益は自動的に口座に流れ込み、創業者は特にそれを気にしない。なぜならAIエージェントが運営しているからだ。彼は別の趣味 — 陶芸とか、あるいは皮肉なことに他人と直接会話する技術の再習得とか — に時間を割いている。企業は人間の野心の器であることをやめ、AIが自律的に維持する経済活動の単位に変わる。それは生態系における菌糸ネットワークのようなものだ。目に見えず、意識されず、しかし確実に養分を循環させている。
これをユートピアと呼ぶには、あまりにも味気ない。ディストピアと呼ぶには、あまりにも平穏だ。名前がまだない。強いて言えば、それは「退屈」に最も近い何かだろう。だがここで思い出すべきは、人類の歴史において、退屈という感情が出現したのは比較的最近 — 産業革命以降 — だということだ。退屈とは、生存の圧力から解放された生物が直面する、存在論的な空白のことだ。ワンマンユニコーンが常態化した世界の住人たちは、経済的生存の圧力からほぼ完全に解放され、かつてない密度の退屈と対峙することになる。そしてその退屈を埋めるために、彼らはまたAIに話しかけるだろう。循環は完成する。
私の窓の外では、東京の冬が例年通りの無関心さで続いている。どこかのアパートで誰かがターミナルを開き、AIに向かって次のユニコーンの設計図を囁いている。彼はたぶん幸福でも不幸でもない。ただ、非常に効率的だ。そして効率性が人間の存在を記述する最終的な語彙になったとき — そのとき我々は、自分たちが何を失ったのかを思い出すための語彙すら持っていないことに気づくだろう。だがその気づきもまた、三秒後にはターミナルの新しい出力によって上書きされる。