現代アートの終焉 — 意味の錬金術が解けた日
ギャラリー、批評家、コレクターが共謀して築いた「意味の希少性」という幻想が、AIとSNSと政治的失墜によって同時崩壊しつつある。これはひとつの市場の死ではなく、後期資本主義が自らの矛盾を隠蔽するために用いた最後の装置の失効である。
現代アートとは何だったのか、という問いに答えるためには、まず「価値とは何か」という問いを迂回しなければならない。そして、その迂回路を歩き始めた瞬間に、我々は不快な真実と対面することになる——価値とは、内在するものではなく、宣言されるものだったのだ。リンゴの重力が地球に向かって落ちるように自然に存在する価値などというものは、現代アートの世界では最初から問題にされていなかった。問題にされていたのは、誰がいつどこで「これは価値がある」と言うか、そのタイミングと権威と回路だけだった。
バスキアのキャンバスに描かれた黒人の怒りが、なぜ九千万ドルになるのか。その数字を生み出したのは絵の具でも構図でも感情の強度でもなく、ギャラリスト、キュレーター、批評家、コレクターというごく少数の人間が形成した閉じたネットワークだった。彼らは互いの権威を相互承認し、その承認の連鎖がコンテクストという名の信用創造を行った。コンテクストとは要するに、人脈と学歴と制度的お墨付きの累積に過ぎない。ホワイトキューブの白い壁が持つ神聖さは、教会の石造りが持つ神聖さと同じ構造によって生産されていた——空間そのものが意味を付与するのではなく、空間をそう見ることを強制する権力の配置が意味を付与するのだ。
この構造が同時に卓越した金融商品として機能したのは偶然ではない。株式や債券と値動きが相関しない非相関資産として富裕層のポートフォリオに組み込まれ、フリーポートを経由した資産隠匿の手段として、あるいはより露骨にはマネーロンダリングのインフラとして現代アートは機能してきた。そして、その金融的な効用を支える言語は一貫して左派的だった。批判、抵抗、脱構築、マージナルな声の解放——こうした言葉を纏いながら、超富裕層の資産を守護するという完璧な矛盾。しかしこの矛盾こそが強度の源泉だった。矛盾しているからこそ、それを解読しようとする批評的欲望を無限に刺激し続けた。わからないことが教養である、という奇妙な前提が共有されている限り、難解さは権威に直結した。
だが今、その魔法が解けつつある。崩壊の引き金は一つではなく、複数が同時に引かれた。まず人工知能が制作の希少性を消滅させた。ミッドジャーニーが数秒で生成するイメージは、十年の修練によって培われた技術的習熟を無効化した。これは単に「誰でも作れる」という問題ではない。より根本的な問いを突きつけた——そもそも制作の困難さが価値の根拠になっていたとしたら、その困難さが消えた後に何が残るのか、と。次にSNSが権威の人脈的構造を可視化した。かつては見えなかったゲートキーパーの顔と関係性が、インターネット上に記録され参照可能になった。「これに価値がある」という宣言の裏側に、友人関係や金銭的利害や性的な取引があることが、もはや隠蔽しきれなくなった。そして最後に、リベラリズム自体が政治的信頼を失った。アートと結婚していたポリティカル・コレクトネスの失墜は、アート固有の緊張感まで道連れにした。アートが政治的正しさの広報機関に成り下がっていたとすれば、その政治的正しさが嘲笑される時代には、アートもまた嘲笑される。
NFTはこの文脈において興味深い失敗例だった。コンテクスト権威をブロックチェーンで代替しようとする試みは、ゲートキーパー問題を解決するどころか再生産し、しかもその再生産の醜さを以前よりも鮮明に露出させた。JPEGに数億円を払うという行為が持つ壮大な滑稽さは、現代アート全体が抱えていた問題を戯画的に拡大してみせた。NFTは現代アートを破壊したのではなく、現代アートをそのまま模倣することによって、模倣元をも脱神秘化した。これはボードリヤールが予見した事態の変奏だ——シミュラクルが原本を凌駕するどころか、原本の虚構性を暴露して終わる。
重要な点は、金融現象としての終焉と時代精神としての終焉が、別個の出来事として進行しているのではないということだ。現代アートは後期資本主義において時代精神そのものを金融化することで成立していた。売り上げの下落と文化的権威の失墜は、同一の腐食の表と裏として現れる。オークションハウスの落槌音が響く頻度と、アーティストステートメントへの敬意が同時に下落するのは、偶然の一致ではない。意味の生成コストがゼロに近づく世界では、意味の希少性を演出すること自体が不可能になる。これは技術的な問題ではなく、存在論的な問題だ——「意味がある」ということが、もはや制度的な宣言によって達成できなくなった。
そして、これは不可逆だ。一度「裸の王様」と見抜かれたものに再び服を着せることは、服を着ていると言い張る者を黙らせることができる権力構造が回復しない限り不可能であり、そしてその権力構造を回復させる社会的コンセンサスは、おそらくもう生まれない。デュシャンが便器を展示台に置いた一九一七年から百年以上かけて積み上げられた「驚き」の更新履歴は、誰も参照しなくなった。それは博物館の地下室に収蔵されたアーカイブの運命を辿っている。
現代アートの死は、一つの錬金術の死だ。より正確に言えば、意味と価値と資本の間に特定の回路を設計し、その回路を制御することで利益を得るという一連の操作の終焉だ。そしてさらに言えば、そのような操作が可能だった時代——情報の流通が制限され、専門家の権威が自明視され、複雑さが尊敬を生んだ時代——の終焉でもある。廃墟化したギャラリーの白い壁は、かつて意味を授けた場所として残るだろう。だがそこに吊るされた作品は、もはや何も語らない。語るべき共同幻想の基盤が、土台から崩れたのだから。