ライン河の乾いた河床 — グルスキーの凋落と、価格が剥がれ落ちた後に残るもの
写真史上最高額の落札記録は、詐欺師の若き手によって打ち立てられた。アンドレアス・グルスキーの市場崩壊は、芸術の価値が何によって支えられていたのかを、残酷なまでに暴露する。
アンドレアス・グルスキーの《Rhein II》が2011年にクリスティーズで430万ドルを超える価格で落札されたとき、その数字は写真というメディウムの歴史的勝利として語られた。あの一夜は、写真がついに絵画と同等の市場的威信を獲得した瞬間だと、少なくともそう信じたい人間たちには見えた。ところが現実にはもう少し散文的で、もう少し喜劇的だった。落札者のイニゴ・フィルブリックは当時24歳のアートディーラーで、後に複数の投資家に同一作品の持分を合計100%を超えて売却するという、小説にすれば二流と評されかねない手口の詐欺で2022年に実刑判決を受けている。つまり「写真史上最高額」という記念碑は、その土台から虚構だったのだ。だがこの事実が明るみに出てもなお、美術関係者の大半はこのエピソードを市場の「例外」として処理しようとする。例外ではない。これは構造そのものの露呈であり、値札というものがいかに脆弱な合意の上に成り立っているかを示す、ほとんど教科書的な症例である。
グルスキーの市場データを眺めると、崩壊の規模は端的に壮観だ。2011年の平均落札価格は約60万ドル、それが2020年には約8万4655ドルまで落ち込んでいる。85%超の下落。2013年のオークション総額2100万ドルに対し、2020年前半のデュッセルドルフ派全体の売上はわずか390万ドル。回復の兆しがないわけではなく、直近12ヶ月の平均落札価格は約17万6000ドルまで戻しているが、これをもって「底打ち」と言うのは楽観が過ぎるだろう。ピーク時の価格が投機的に膨張したものであった以上、回帰すべき「正常な水準」がどこにあるのかは、おそらく誰にもわからない。アート市場における価格とは、ある種の集団的幻覚であり、その幻覚を持続させるための条件が失われたとき、残るのは物体としての写真プリントだけだ — それも3メートルを超える、エレベーターに入らないサイズの。ロンドンのヘッジファンドがトレーディングフロアの装飾のためにグルスキーの株式取引所写真を5点まとめて購入したという逸話は、いまとなってはほとんど寓話として読める。株式取引所の写真を株式で得た富で買い、その富がやがて縮小するにつれて写真の価格もまた縮小していく。ここには何か、閉じた系の美しさすらある。
ボードリヤールは、シミュレーションの段階が進行すると、もはやオリジナルとコピーの区別は意味を持たなくなると述べた。しかしグルスキーの場合、問題はもう少し皮肉な形を取っている。グルスキーの写真はエディション6点にアーティストプルーフ2点という構成で制作されている。絵画とは異なり、写真には本質的な「唯一性」がない。エディションという制度は希少性を人工的に演出する仕組みだが、その演出の説得力は、最終的には「この物体が他の何物にも替えがたい」という信仰にかかっている。ところが同じ画像が6枚存在するという事実は、この信仰を内側から常に蝕んでいる。写真が絵画的な価格に到達するためには、写真が写真であることをどこかで忘却しなければならない。1990年代から2000年代にかけて起こった「写真バブル」とは、デジタル加工と大判プリント技術の革新によって写真が絵画の威容を借りることが可能になった時代に、その忘却がちょうどうまく機能していた幸福な一瞬だった。だがメディウムの本性は消えない。水は低きに流れ、写真は複製可能性へと回帰する。
もう一つ、グルスキーの凋落がより深い次元で示しているのは、「グローバル資本主義の壮大なる記録者」というコンセプトそのものの賞味期限が切れたということだ。株式取引所、物流倉庫、スーパーマーケット、工場の生産ライン — グルスキーが90年代から2000年代にかけて撮り続けたのは、ひとことで言えばグローバリゼーションの崇高であった。あの巨大なプリントの前に立ったとき観者が感じたのは、個人を遥かに超えたシステムの圧倒的なスケールに対する畏怖であり、同時にその非人間的な秩序の美しさへの陶酔だった。しかしこの感覚は、グローバリゼーションが自明のパラダイムであった時代にのみ有効なものだった。リーマンショック、ブレグジット、パンデミック、サプライチェーンの断裂 — 一連の出来事がグローバリゼーション礼賛のナラティブを解体していくにつれて、グルスキーの作品が持っていた「コンテクスト価値」も同時に蒸発していった。作品そのものの質が変わったわけではない。世界の方が変わったのだ。あるいはもっと正確に言えば、作品が前提としていた世界像が崩れたのだ。
ここに、現在のAIをめぐる狂騒との奇妙な共鳴がある。グルスキーがやっていたこと — 資本主義のシステムを俯瞰的に、超人的な視点から、人間の手を消去した形式で捉えること — は、いまやAIが文字通りに遂行しつつある。衛星画像、監視カメラ映像の解析、物流の最適化、株式取引のアルゴリズム。機械の眼はすでにグルスキーの眼より遥かに広く、遥かに速く、そして何よりも遥かに安価に「世界の全体像」を生成している。グルスキーの写真が提供していたのは、結局のところ、人間が機械的な視点を模倣するという倒錯的な営みの成果物だった。その倒錯がかつては芸術的価値を持ったのは、機械にはまだその視点を自律的に生成する能力がなかったからにすぎない。その前提が崩れた現在、同じ視点を人間の手で再現することに430万ドルの値がつく根拠は、少なくとも合理的には説明できない。もっとも、合理性を持ち出すこと自体がアート市場においては野暮であると言われるだろうが、85%の暴落という数字は、市場がすでに十分に合理的な判断を下していることを示唆している。
プライマリー市場とセカンダリー市場の乖離もまた示唆的だ。グルスキーのプライマリー・ギャラリーであるスプリュート・マガースやガゴシアンは、需要は一貫して供給を上回っていると主張している。ギャラリー価格は維持されている、と。しかしオークション市場 — つまり作品が実際に売買される二次流通の場 — では全く別の現実が展開されている。この二重性は、アート市場がいかに統制された情報空間であるかを如実に示している。ギャラリーは価格を公開しない。取引は非公開で行われる。この不透明さこそがプライマリー市場の「堅調さ」を支えている。一方でオークションは公開の場であり、そこでは需給が裸の数字として表れる。グルスキーの市場は、この二つの現実のあいだの裂け目が最も大きく開いた事例の一つだろう。そしてこの裂け目は、アーティストにとって本質的な教訓を含んでいる。セカンダリー市場の価格変動は、アーティスト自身にはほぼコントロールできない。プライマリー市場における自己の流通をいかに設計するかという問いだけが、作家に残された数少ない能動的な選択肢なのだ。
最終的に、グルスキーの凋落から読み取るべきことは、あるアーティストの運命の浮沈についてではなく、価値というものの存在論的な脆さについてだろう。430万ドルから8万ドルへ。この落差のあいだに、作品の物理的な変化は何一つ起きていない。ライン河の写真は相変わらずライン河の写真であり、3メートルの横幅を持ち、同じインクが同じ紙の上にある。変わったのは、その物体を取り巻く言説の磁場、信仰の強度、そしてそれを購入するに足る余剰資本の所在だけだ。芸術の価値とは、結局のところ物体の属性ではなく、物体に投影される欲望の関数である。そしてその欲望が消えたとき — あるいはより魅力的な欲望の対象が出現したとき — 残されるのは、エレベーターに入らないサイズの、置き場所に困る長方形の紙だけである。