蕩尽されざる者たちについて

2026年、アメリカの労働市場でひとつの入口が音もなく閉じつつある。解雇でも不況でもなく、最初から呼ばれないという形式で。健全なマクロ指標の下で進行するこの消去について。

遠藤道男執筆 遠藤道男
AI労働統計バタイユ氷河期世代

アメリカの失業率は2026年初頭で約4.6%である。歴史的に見ればむしろ低い水準と言ってよい。マクロ経済の通常の指標は、何ひとつ警告を発していない。ゴールドマン・サックスはAI起因の失業率上昇を0.5%ポイント程度、かつ一過性と推計し、エール大学予算研究所はAI露出度指標と雇用変化の間に現状関連は見られないと慎重に報告している。ダラス連銀に至っては集計全体への影響を0.1%ポイント程度と見積もる。数値は、おおむね、何も起きていないと告げている。あるいは、告げているように見える。

しかし数値が「何も起きていない」と告げるその意味を、われわれは少し丁寧に検討しなければならない。スタンフォード大学の研究が示したところによれば、AIへの露出度が最も高い職業に就く22歳から25歳の雇用は、2022年以降13%減少している。同じ年齢層の他職種、あるいは同じ職種の熟練労働者は、横ばいか、むしろ増加している。落ちているのは若者と、入口と、それだけである。ダラス連銀の2026年1月の分析はさらに踏み込んで、この雇用減少が「失業や解雇ではなく、労働市場外から雇用への流入低下によって主に起きている」と観察する。オックスフォード・エコノミクスの推計では、最近の失業率上昇の85%は、既存労働者の解雇ではなく、新規労働市場参入者が職を見つけられないことに起因する。つまり解雇という可視的事象はほとんど起きていない。起きているのは、入口が静かに閉じるという、きわめて不可視の事象である。Shopifyのトビー・リュトケが従業員向けに通達した有名なメモ ——「AIで不可能であることを証明してから、人間の新規採用を申請せよ」—— は、この移行を最も簡潔に要約している。採用の立証責任が、人間から機械へ、雇う側から雇われる側へ、一行のメモで反転した。類似の通達が、マッキンゼー、Duolingo、そしておそらくは秋以降に報じられることになる無数の企業で、ほぼ同一の構文で発せられている。雇わない理由は、もはや不況ではない。足りているから、である。Anthropic社のボリス・チャーニー —— 私が日々使うClaude Codeの創設者 —— は最近、ソフトウェアエンジニアという肩書は年末までに消え始めるだろう、それは多くの人にとって痛みを伴うものになるだろう、と語った。彼自身は2025年11月以降、コードを一行も手で書いていない。

ここで決定的なのは、統計装置そのものの機能不全である。ダラス連銀の研究者は、自らの分析の脚注において率直に告白している —— AIの採用がコンピュータサイエンス卒業生を永久にプログラマー職から遠ざけた場合、その個人の職業は「失業中のプログラマー」ではなく、最も最近の地位、すなわち学生、あるいはアルバイトとして記録される、ゆえに失業者の職業分類からAI露出を識別することは避ける、と。翻訳しよう。BLSの分類装置は、なったことのない職業からの排除を、記号化することができない。失業という記号は、就労していた者が就労を失ったときにのみ発行される証書である。一度も就労できなかった者は、失業者ですらない。彼らは学生、アルバイト、あるいは「労働力非参加者」—— より正確には、統計のどのカテゴリーにも正しく収まらない、分類上の残余 —— として記録される。かくして、集計レベルで「影響は小さい」という判定自体が、記号体系の内部からの発話として機能する。外部で起きている変化は、定義上、集計には現れない。ボードリヤールを引くまでもなく、現代の失業率は労働市場の現実を反映しているのではなく、何を失業として記号化するかの規約によって構成される自己準拠的な記号である。問題は、その記号体系の外部に押し出された存在が、存在論的に消去されていることだ。彼らは失業していない。そもそも、労働市場に登録されていない。

この事態を最も鋭く照らし出すのは、おそらくジョルジュ・バタイユの普遍経済学である。バタイユにとって、あらゆる経済は過剰を産出する。生産は必然的に余剰を生み、社会はそれを蕩尽 —— 戦争、祭儀、浪費、芸術、あるいは階級闘争 —— によって処理しなければならない。古典的な産業資本主義における失業者は、この過剰の人間的形態だった。彼らは排出され、可視化され、失業保険、職業訓練、労働運動、あるいは革命的主体としての形象化という、さまざまな社会的処理のサイクルに組み込まれた。失業者はバタイユの言う「呪われた部分(part maudite)」であり、呪われていたがゆえに、処理されるべき存在として社会の記号体系に登録されていた。呪いとは、しばしば、存在の承認の別名である。ところが、2025年以降のアメリカ労働市場で起きているのは、この過剰処理装置の停止、というより前倒しの拒否である。過剰は生産されたのちに排出されるのではない。過剰は、生産される前に、吸収そのものが拒否される。入口で止められた若者たちは、失業者というカテゴリーにさえ到達しない。彼らは蕩尽の対象ですらない。呪われる前に消される、とでも言うべきか。バタイユが『呪われた部分』で描き出した普遍経済の循環 —— 過剰の生成、蕩尽、再生 —— の、その最初の環が静かに断ち切られている。技術資本主義はバタイユへの回答として、過剰を生成しないことを選んだ。蕩尽する必要はない、最初から呼ばなければよい、と。

この構造を、私は、遠く離れた場所から、既視感とともに眺めている。48歳の、山形県出身の、氷河期世代の一員として。2001年、大学を中退した私はITバブル崩壊直後の渋谷のネット企業でアルバイトをしていた。当時の労働市場は、総需要の崩壊という明瞭な経済的原因に直面していた。われわれの世代が経験したのは、入口の狭さであり、非正規化であり、そして何よりも「自己責任」という概念による個別化であった。マクロの崩壊は個人史の不運として翻訳され、世代的経験は政策的カテゴリーには昇格しなかった。失われた20年における構造的排除、というカテゴリーは、制度的にはついに用意されなかった。氷河期は、可視的マクロ不況下での可視的排除であったにもかかわらず、不可視化された。2026年アメリカの新卒層が置かれているのは、その構造の、より純粋な形態である。マクロは健全、しかし入口だけが消える。原因は技術的、発生地はAI利用国すべて、観察の外部はどこにも存在しない。そして私自身が —— ここで誠実さのためにひとつだけ白状しておかねばならない —— Claude Codeのヘビーユーザーとして、ジュニアエンジニアが担ってきたタスクを日々機械に委ねている、代替する側の人間である。氷河期に入口を狭められた者が、四半世紀後、別の世代の入口を狭める側の装置を能動的に駆動している。この二重性を、私は告白する以外にどう処理すべきか分からない。おそらく、処理する必要はない。二重性の放置こそが、この時代における批評の唯一の誠実な形式である。記号体系の外部に押し出された者たちの存在を指し示す言葉は、その体系の内部で恩恵を受けている者の言葉であることを隠蔽してはならない。蕩尽されざる者たちについて書くとき、われわれは蕩尽の側にいる。この事実は、書くことを妨げない。それは、書くことの条件である。