延命という外部化
延命という言葉には本来、慈悲の響きがある。しかし延命される者が延命の費用を払わないとき、それは別の何かになる。
四割のウェブはWordPressで動いている、という事実を技術的成功譚として語る者は、もうほとんどいない。それは疾病率を健康指標として誇るようなものだ。二十年前に書かれたPHPのコア、十年以上前の設計思想で組まれたプラグイン群、その上に積層された継ぎはぎのセキュリティパッチ、そしてそれらすべてを「動いているのだから問題ない」という一語で正当化する集団的な惰性 — これを業界は「延命」と呼ぶが、延命という日本語には本来、ある種の慈悲の響きがある。ここで進行しているのはそれとはまったく別種の何かだ。
延命の経済的実質は、コストの外部化にほかならない。ある組織がレガシーなCMSから移行しないと決定するとき、彼らは何も節約していない。彼らは単に、支払いの相手先を変えているだけだ。移行コストという請求書は破棄されていないし、破棄されていないだけでなく、複利で膨らみながら、彼ら自身とは異なる誰かの口座へと粛々と回送されている。その誰かとは — 将来のユーザー、個人情報が漏洩する誰か、セキュリティコミュニティの無償労働者、そして開発者としての自分の過去を呪いながら他人の書いたスパゲッティを相続することになる若いエンジニアである。負債は消えない。負債はただ、決定権のない者たちの肩へと静かに移される。
Ultimate Memberというプラグインが、この構造を顕微鏡的に理解する最も残酷な事例である。これはWordPressに会員制機能を付与する、ごくありふれた、しかし極めて普及したプラグインで、過去数年、重大な脆弱性を定期的に排出し続けている。特権昇格、任意の管理者アカウント作成、認証回避 — そのたびに開発者は善意でパッチを当て、サイト運営者は(往々にして致命的に遅れて)アップデートを適用し、誰もこれを「異常な状態」とは呼ばない。しかしこれは異常である。認証、セッション管理、個人情報の保持 — 最も厳密な設計を要求される機能群が、少数の開発者が有志で維持するプラグインに委託されているという事態そのものが、脆弱性の連続供給を構造的に保証している。バグではなく形式が問題なのだ。時限装置という比喩が正確なのは、それが秒針の位置をリセットせずに鳴動を繰り返すからである。爆発は一度ではない。爆発は仕様である。
ベルナール・スティグレールは、あらゆる技術をpharmakon — 毒でもあり薬でもあるもの — として分析した。WordPressほどこの二重性が剥き出しに立ち現れる現象はない。それはウェブ出版を民主化し、同時にそれを救いがたく脆弱化した。誰もが自分のサイトを持てるようになったという恩恵と、ほとんど誰も自分のサイトが実際に何をしているかを把握していないという病理は、同じコインの裏表ですらない。同じ一枚の紙の、同じ側に書かれた二つの文字である。スティグレールが「プロレタリア化」と名指した事態 — 技術を媒介することで、知の担い手から知そのものが抜け落ちていく不可逆の過程 — は、このエコシステムに完璧に当てはまる。現代のウェブ管理者は、認証機構を書く必要がない。セッションを設計する必要がない。データベースの整合性を考える必要がない。プラグインがあるからだ。そして、そのプラグインが爆発したとき、彼らはそれを修復する能力を持たない。そもそも何が修復されるべきかを理解していない。
この無能は個人の怠慢ではない。それは構造の産物である。ウェブ開発がWordPress的なエコシステムへと二十年間流れ込み続けた結果、業界は集団的な技能の層を確実に失った。そして失われたものは回復されない。なぜなら技能は使用によってのみ維持されるからだ。使われない筋肉が萎縮するのと同じ理屈である。延命を続ける限り、この萎縮は進行する。移行しないことの真のコストは、個別のサイトが抱える個別のリスクにあるのではない。業界全体が「自分で書く」という選択肢そのものを失っていくこと、そしてそれを失ったことすら認識できなくなること — そこに本質的なコストがある。
さらに悪いことに、このコストは可視化されない。脆弱性が一つ発見され、修正されるたびに、私たちはそれを個別事象として処理する。CVE番号が振られ、パッチが当てられ、ブログ記事が書かれ、数週間で忘れられる。しかしそれらは個別事象ではない。それらはすべて、同じ一つの構造的欠陥の異なる表出である。毎月起きる何かは、もはや事故ではない。それは仕様だ。ただし、その仕様書を読んだ者は誰もいない。
延命という語に倫理的な含意があるとすれば、それは延命される者が延命の費用を負担しない場合 — ほとんどの場合において — それは延命ではなく搾取を意味するという単純な一点にある。WordPressの延命は、WordPressを選んだ者たちではなく、WordPressを選ばなかった者たちによって支払われている。将来の被害者、維持に巻き込まれる開発者、ウェブという共有財のセキュリティを不作為のうちに蝕まれる全員。このことを直視したとき、それでも延命は正当化可能なのか、という問いが立ち上がる。答えは明白である。しかし明白な答えが実行されることは稀である。私たちはおそらく、崩壊が否認不可能になる日まで、この借り物の時間を引き延ばし続けるだろう。そしてそのときにはもう、償う技能を持った者は、どこにも残っていない。