シリコンバレーはなぜ絵画を拒絶するのか — あるいは、合理主義者たちの審美的貧困について
世界最大の富の集積地で、メガギャラリーが次々と撤退していく。テック長者たちの「反権威主義」は、芸術の否定ではなく、より深い文化的不能の徴候である。
ある種の失敗には、当事者たちが認めたがらない必然性がある。2016年、Pace Galleryがパロアルトの元Teslaショールームに旗を立て、同じ月にGagosianがSFMOMAの隣にスペースを開いたとき、アートワールドの住人たちはこれを「テクノロジーと芸術の歴史的融合」の序章として祝った。テック長者を次世代のメディチに仕立て上げるという壮大な物語が、業界紙の見出しを飾った。しかしGagosianは2021年にひっそりと撤退し、Paceも翌年に後を追った。いずれもロサンゼルスへの「集約」を理由に挙げたが、それは敗北の婉曲表現にすぎない。世界最大の富の集積地に乗り込んだ二つの帝国が、ほぼ同時に白旗を揚げたという事実は、単なる商業的誤算ではなく、現代における富と美の関係についての、きわめて示唆的な寓話である。
なぜシリコンバレーの億万長者たちは絵を買わないのか。表面的には文化的気質のミスマッチとして説明される。ベイエリアの人々はブランドや権威に反応しない、彼らは「今この瞬間に何をもたらすか」を重視する、云々。Pace社長のMarc Glimcherは撤退の一年前に「ベイエリアは権威や排他性という虚飾に反応する場所ではない」と語っていたが、これは敗者の自己弁護としてはいささか洗練されすぎている。問題の核心はそこにはない。テック長者たちがブルーチップ・アートを拒絶するのは、彼らが反権威主義者だからではない。むしろ逆だ。彼らはきわめて従順な権威主義者であり、ただしその権威の座に芸術を据えることを拒んでいるだけだ。彼らにとって権威とは、スケーラビリティであり、メトリクスであり、指数関数的成長の約束であって、キャンバスの上の絵具の厚みではない。ある若い起業家がアートフェアを見て「価格とクオリティが全然相関してない」と一蹴したという逸話は、この断絶の本質をみごとに要約している。彼はアートの価値体系を否定したのではない。価値体系が数量化可能でないことに、生理的な嫌悪を覚えたのだ。
ジャン・ボードリヤールがかつて、現代アートは「価値のないものに価値を与える共謀」であると喝破したのは、まさにこの構造を指している。ブルーチップ・アート市場の本質は、美学ではなく信仰共同体である。リヒターの抽象画に数十億円の値がつくのは、それが数十億円の価値を持つからではなく、それに数十億円を払う人間が存在するという事実自体が、次の買い手にとっての価値の根拠になるからだ。この循環論法を維持するためには、参加者全員がゲームのルールを内面化し、「なぜこれがこの値段なのか」という問いを発しないという暗黙の合意が必要になる。旧来の富裕層 — ヨーロッパの貴族、ニューヨークの金融エリート、中東の王族 — はこの共謀に喜んで参加した。なぜなら彼らにとって、合理的に説明できないものにカネを払うという行為そのものが、自らの階級的優越を証明する儀礼だったからだ。ところがシリコンバレーの新興富裕層は、この儀礼を理解しない。理解しないのではなく、理解する必要がない。彼らはすでに自分たちの階級的優越を、IPOの時価総額によって十分に証明済みだからである。
ここに本質的な逆説がある。テック長者たちは芸術に無関心なのではない。彼らはきわめて熱心に「アート」を消費している — ただし、それはBurning Manの砂漠に出現する巨大インスタレーションであり、Refik Anadolがビッグデータを流体シミュレーションに変換して見せるスクリーンセーバー的壮麗であり、投機対象として一瞬燃え上がり灰になったNFTである。彼らが拒絶しているのは芸術そのものではなく、芸術の「正統性」を独占してきたゲートキーパーの体系 — つまりギャラリー、オークションハウス、美術批評家、キュレーターからなる権力構造 — である。これは一見すると解放的に見える。だが実際には、彼らが代替として採用した「アート」は、既存の体系よりもはるかに貧しい。Burning Manのインスタレーションは写真映えする一回性の体験であり、それ以上のものではない。Anadolの作品が2024年にMoMAに収蔵されたという事実は、しかし単にテック美学の勝利として片づけられるものではない。問うべきは「なぜAnadolが制度に受け入れられたか」である。MoMAがあの作品を収蔵したのは、AIとビッグデータを素材とする作品に美術史的正統性を認めたからではない。美術館という制度そのものが、テック産業の富と観客動員力に依存せざるを得なくなったからだ。来館者がスマートフォンを掲げて流体シミュレーションの前で自撮りする光景は、美術館にとって最も効率的な広報装置である。Anadolの作品はデータの可視化であってデータについての思考ではない — だがそれは作家の限界というよりも、作品を受け入れた制度の告白に近い。美術館は思考の場であることをやめ、体験の場になることを自ら選んだ。テック長者たちが構築した「自分たちの文法」 — 審美的経験から思考と持続を除去し、感覚的即効性だけを残す快楽消費のプロトコル — は、いまや美術館の側からも迎えに行かれている。拒絶は双方向ではなかったのだ。
Gagosianがサンフランシスコで失敗した理由として、地元関係者は「コミュニティへの関与がなかった」ことを挙げる。Gagosianは地元のアートフェアSFDADAにも参加せず、この街のエコシステムに溶け込もうとしなかった、と。だがこの批判は的を外している。Gagosianがコミュニティに関与しなかったのは怠慢ではなく、関与すべきコミュニティがそもそも存在しなかったからだ。テック企業はキャンパス型の自己完結した世界を形成し、従業員が外部に出るインセンティブを体系的に消去している。無料の食事、ジム、託児所、マッサージ — これらの福利厚生は労働者の幸福のためではなく、労働者が外部世界と接触する必要性を根絶するために設計されている。こうした環境で育成された人間が、土曜の午後にギャラリーを覗くという、きわめて19世紀的な行為に興味を示すはずがない。
そして2026年、Hauser & Wirthがパロアルトの元郵便局にスペースを開く。先行者の屍を踏み越えての進出だが、その戦略は前任者たちとは本質的に異なっている。地元アート界の多くが指摘するように、この拠点の真の目的はLaurene Powell Jobs — 故スティーブ・ジョブズの未亡人にして推定資産140億ドルの女性 — との距離を縮めることにある。新ギャラリーは彼女のEmerson Collectiveオフィスからわずか2ブロック。改装を手がけるのは、彼女がサンフランシスコ・アート・インスティテュートの改装に起用したのと同じ建築家、パリ拠点のLuis Laplace。2022年にPowell JobsがPaceへの支援を打ち切り、Hauser & Wirthに鞍替えしたという経緯を踏まえれば、この進出の意味は明白だ。Hauser & Wirthは「テック長者一般」を顧客に変えようなどとは考えていない。一人の超富裕層クライアントのために、街の一角を改装しているのだ。
これはある意味で、最も誠実な戦略である。PaceやGagosianがシリコンバレーに持ち込もうとしたのは、ニューヨークやロンドンで機能する「ブルーチップ・アート市場」という制度そのものだった。その制度は、一定数の富裕層が共通の価値基準を信仰するという前提の上に成立している。しかしベイエリアにはその信仰共同体が存在しない。だからHauser & Wirthは制度を移植することをやめ、個人との関係に賭けた。ギャラリーという機構が、最終的にひとりの顧客のための私的なショールームに還元される — これは現代アート市場の到達点というよりも、その論理的帰結である。市場が信仰共同体として機能しなくなったとき、残るのは純粋な権力関係だけだ。140億ドルの女性が「良い」と言えば、それが良いのである。
シリコンバレーの億万長者たちが絵を買わないという事実は、芸術の危機ではない。芸術はとうの昔に危機を通過し、いまや危機そのものを商品化する段階にある。ベイエリアで起きていることは、もっと単純で、もっと救いがたい。それは、人類史上最も多くの富を蓄積した集団が、その富を美的経験に変換する回路を完全に欠いているという事実である。彼らは世界を変えると公言し、実際に変えてきた。だがその変革の果てに残ったのは、砂漠で一週間だけ燃える木の彫刻と、元郵便局に開かれた一人の未亡人のためのギャラリーだけだ。これを貧困と呼ばずして、何と呼ぶのか。